観光地を「観る」視力
旅や観光をつうじて、みなさんはどれだけその場所をしっかりと「観る」ことができているでしょうか。
目的のものを一目見て、一枚パシャリと写真を撮って、はいおわり。次はどこへ行こう。そのような旅/観光をしていませんか?
観光地や地域は、じつは旅人/観光者のみなさんにたくさんのメッセージや想いを伝えようとしています。何を楽しんでもらいたいか。どのようなことを遠慮してほしいか。身勝手で「通り過ぎるだけ」の観光や旅ではなく、地域に寄り添ったサステナブルな旅をしていくためには、観光地や地域に散りばめられたそれらのメッセージに気づいていく必要があります。
デバイスを通じて知覚される世界
『写真論』を著したスーザン・ソンタグは、次のような印象的な議論をしています(ソンタグ 2010)。
けっきょく、ある経験をもつということは、その写真を撮ることと同じになっており、公の行事に参加するということは、写真の形でそれを見ることとますます等価になっている
観光者はカメラをもって観光地に出かけることを当然視し、そしてカメラやスマートフォンのレンズと画面を通じて世界を認識・知覚するようになっています。著名な観光スポットを訪れていた時のあなたの記憶を思い出してみてください。周りの人はみな肉眼を通してよりも、むしろスマートフォンやカメラを顔の前に掲げ、それを通してその場所を観てはいなかったでしょうか。
音楽ライブやスポーツ観戦でもそのような風景は当たり前になっています。その良し悪しは別として、私たちはますますデバイスを通じて世界を観るようになっているのです。
撮影して終わり?
そうした世界認識の作法は、私たちの観光・旅の経験にいかなる影響を及ぼしているのでしょうか。
これについて、エドワード・ブルーナーという観光研究者は自身の経験をもとに次のような議論を投じました。
彼はあるとき、インドネシアにおいて、引退した専門職者や大学教授、弁護士などの富裕層・インテリ層を対象としたスタディー・ツアーのガイドを担うことになりました。それはガイドとして、観光客の経験について内側から観察することを目的とした彼自身の調査方法でもありました。
そしてあるとき、ツアー客とともにバリで年に一度だけ開催される寺院祭礼を見学する機会が訪れます。バリ人が、観光客向けではなく自分たち自身のために行うその祭礼は見事なもので、ブルーナーは胸を打たれます。
しかし、彼が引き連れていた観光客はそんなことはありませんでした。昼食の時間だからと、みなバスに足早に戻ってしまう。ブルーナーは彼らを引き留め、この祭礼をもっと見ておくべきだと説得を試みますが、人びとからこう言われてしまいます。
「だってもう見たじゃないか」。
ここからブルーナーは、研究者と観光者の違いについて考察をおこないます。研究者にとっては、「その場所に居る」ということはすべての始まりを意味します。しかし観光者は、「その場所に居る」だけで満足してしまう。それどころか、一目見ただけ、あるいは写真を撮影しただけで、「もうそれを経験した」と思ってしまうのだ、と。
ブルーナーは言います。「観光客は出来事や人をカメラのレンズを通して観察する」。そして、
観光客が新しい場所に着いたとき、まずもって彼らはカメラを顔の前に持ち上げる。そしてそのカメラのファインダーを通して景色を見るのだ。私はそういう場面を幾度となく目にしてきた(中略)。それは周囲の文脈を視界から削除し、同時に強調すべきものをフレームに選び取る。それはクローズアップされ、上手に構成され、そしてフレームの周囲に大きく広がる環境をほったらかしにする(Bruner 1995: 235)。
写真撮影という忘却/記憶装置
スーザンソンタグやエドワードブルーナーの議論において重要なポイントは、写真撮影が「経験の記憶」と「経験の忘却」の両方を同時に達成してしまうという点にあります。
みなさんは観光地でなぜ、写真を撮るのでしょうか?近年では、「映え」を撮影してシェアしたいという動機が強いものと思われますが、そもそもは「経験を記憶したいから」ですよね?写真に撮れば後から見かえし、その時のことを思い出すことができます。
他方で写真撮影は、このような心理を生みだします。「写真に撮ったし、もういいか」。
後から見かえせるし、写真に撮ったのだから無くなることはない。そうした考えが次第に、「撮影しただけで満足」という気持ちを喚起してしまうのです。
これは言い換えれば、「写真を撮ることによってその場所について忘却し、次のお目当てに意識を傾けるため」の写真撮影といえるでしょう。「写真に撮ったからもう忘れて大丈夫。次はどこに行こう?」……そのようにして、写真は私たちの忘却(と次なる楽しみ)を助けてしまうのです。
写真が撮れないときにはどうする?
私はかつて、とある地域の「教会」を訪れる観光者の研究をしていたことがあります。
その場所はカトリックの宗教的聖地として、写真撮影が禁止されている場所でした。また、教会内部の昔ながらの建築や塗装を守るため、壁や柱に触ることも禁止されていました。
そうした場所で観光者はどうするかというと、写真を撮ることができない代わりに、ずっと長い時間を観察に費やすのです。教会内部の事物や柱や壁の模様まで細かく観察したり、ガイドからの詳しい説明を求めたりと、写真という記憶装置を使えない代わりに自らの目や身体を使ってその場所を経験し、記憶しようとしていたのです。
写真を撮ることができないという気持ちで観光地や旅先の地域を捉えようとしてみると、これまでは目に入らなかったことを観たり、新しい発見に出会うことが出来たりするかもしれません。カメラを撮影して終わりという、敢えて言ってしまえばお手軽な観光で済ませるのではなく、視野を広げてくまなくその場所をまなざそうとする。そのような意識も必要かもしれません。
地域からのメッセージを「観る」
「写真を撮って満足」という歩き方だと、どうしてもお目当ての写真スポットや「写真映えしそうな場所」しか目に入ってこないものです。それでは、地域の側がみなさんに向けて投じているメッセージに気づくことは出来ません。
メッセージ。その代表例は、張り紙や看板による「注意事項」です。
「ここで食べ歩きをしないでください」
「ここで立ち止まらないでください」
「ゴミをここに捨てないでください」
そうした、地域の側がみなさんに「してほしくないこと」をめぐる注意書きや張り紙に気づくことが、何よりもまず旅人に求められるはずです。ここで何をしてよいか、何をしては良くないのか。そうしたことを身勝手に判断してしまう前に、何かメッセージがないか探してみること。そのような振る舞いこそ、地域に迷惑をかけないスマートな旅と観光のあり方の出発点かもしれません。
参考文献
- Bruner, Edward M. 1995. The Ethnographer/ Tourist in Indonesia, in Lanfant, Marie-Françoise et al eds., International Tourism. London: Sage, pp. 224-241.
- ソンタグ、スーザン2010『写真論』近藤耕人(訳)、晶文社.
この記事へのコメントはありません。