「人新世」の時代
人間活動が原因となり地球に及ぼす影響が、地球の地層や「地質年代」に痕跡を残すほどに大きくなっていることに警鐘をならすべく提案された言葉、「人新世」。パウル・クルッツェンとユージン・ストーマーによって提唱された当時、かれらは人新世の始まりの時期(すなわち「完新世」の終わり)について、18世紀後半の蒸気機関の発明が転換点であると考えられていました。
その後、「人新世」は主に国際地質科学連合を中心に学術的な会議が積み重ねられ、今日では、人新世のはじまりは1945年の第二次世界大戦の終戦後から1950年ごろであると考えられています。
グレート・アクセラレーション
では、1945年から1950年以前までの世界と、それ以降の今日までの世界は何が異なるのでしょうか。その境界線は、人類史における「グレート・アクセラレーション」にあるとされています。
人新世に関する議論では、グレート・アクセラレーションとは、人類が地球にもたらす影響が加速度的に増加する転換点のことをいいます。1950年頃を契機に、地球への人間活動の影響が「大加速した」ということですね。
それ以降、人口の増加、資源やエネルギー消費の増加、人の移動や自動車の増加、発電施設の増加、開発の増加などが世界中で急激にみられ、その結果として二酸化炭素の排出量や気候・オゾン層への影響、海洋・土壌汚染、動植物への影響などの問題もまた「大加速」していったことが判明しています。人類による大量生産、大量消費、そして大量廃棄の時代です。1980年代後半から1990年代にはさらに「グローバリゼーション」と重なり、いっそうの「大加速」を押し進めることとなりました。
「人新世」が突きつける問題
人間中心主義
「人新世」の時代において現れている問題は数えきれません。気候変動や生物多様性の危機、それからエネルギーの問題など、「人間と自然」をとりまく様々な課題が生じています。干ばつや洪水、海洋酸性化などの問題も指摘されています。加えて、海洋や土壌に分解されないプラスチックや産業廃棄物が打ち捨てられ、それが動物や植物、微生物に害を与えているといった問題も、いまだ解決されていません。
さて、さまざまな問題として現れている今日の地球環境問題ですが、それらが私たちに突きつけている真の問題は「人間中心主義 」という考え方にあると、さしあたりまとめることができます。人間の生活や利便性、利益を優先し、それ以外の自然や資源を無視したり、利益を実現させるための材料とみなしたりする思考です。人間中心主義にとって、自然は人間によって利用されるために存在しているものと位置づけられます。そのような考え方が今日の環境問題を引き起こしていることは言うまでもありません。
ちなみに人間中心主義は英語で「Anthropocentrism」と書きます。なお人新世は、「Anthropocene」。どちらも、ギリシャ語で「人間」に関わる言葉である「anthropos」をもとにして作られた語ですね。
グローバルな「危機の不平等」
もうひとつ、人新世を考えるうえで忘れてはいけない問題があります。それは、人新世は今日のグローバルな格差の問題を浮き彫りにしているという点です。
地球規模の環境問題は、じつは、地球上のすべての人間一人一人に「平等に」リスクを振りまいているわけではありません。そもそも、各国の二酸化炭素の排出量やエネルギー消費量は大きく異なりますが、多くが先進諸国によるものです。しかしながら、それによる破壊的な影響はいわゆる「南」や社会的な弱者にいっそう強く押しつけられる状況が生じています。大量生産と大量消費、そして大量廃棄をする主体と、その不利益を被る主体が異なるということです。また、地球全体にもたらされる影響に対する防衛策自体にグローバルな国家格差が根を下ろしている可能性も指摘できます。一日中エアコンのきいた快適な部屋で生活・労働することができる者と、それができずに熱中症などのリスクに晒される者が、経済的格差や社会的格差のもとで分け隔てられることはその最たる身近な例でしょう。
こう言ってよければ、地球規模の環境問題を安易に「人類全員の問題」とし、全員が平等に責任を負うべきものと考えることには問題がある可能性があるということです。もちろん、一人ひとりができることに取り組んでいくことは必要です(塵も積もれば…!)。それと同時に、現代の環境危機の背景にある、グローバルな新自由主義や資本主義の構造的問題に批判的な目を向けていく必要があるといえるでしょう。危機は平等にもたらされているわけではないのです。
「構造」に働きかけるような旅は可能か
旅において、個人ができる「サステナブルな旅」に取り組みつつ、さまざまな問題を生み出している社会の「構造」にも働きかけることは可能なのでしょうか。最後に、それについて少し考えてみたいと思います。
旅は、基本的には個人主義的な営為です。複数人で旅することはあれど、多くは「自己実現」や「発見」といった個人主義的な達成やモチベーションと結びついています。それゆえ、旅をキーワードにして集団的・集合的な「運動」を進めていくことには一定の難しさも存在するといえるでしょう。
しかし、旅は個人主義的とはいえ、「完全に個人的に実行される旅などほとんどない」という事実があることも重要です。旅をするにあたって、すべてを「自分一人」の力で行うことはできません。すくなくとも、宿や交通手段を利用したり、どこかで食事をしたりする必要があります。また旅程を考える際には、他の旅行者の経験に触れたり、メディアを参考にしたりもします。
別の言い方をすれば、どのような旅も一定の程度で「市場/マーケット」に巻き込まれています。旅行(観光)市場、宿泊産業市場、交通産業市場、食産業市場、広告市場等々。そのことは、どのような旅や観光も資本主義の構造の一部であるということを示すものです。資本主義やマーケットから抜け出した、完全に自由な旅は極めて難しいものでしょう。しかし悲観的になるのは早急です。「市場」や「資本主義」の側が旅や観光に形を与えているとしても、そこには同時に「旅や観光の側が市場に与える影響」も存在しているのですから。
新しい商品をつくり、市場で販売しても、期待したほどに売れなければその商品は販売が停止されたり、改善案を検討されたりしますね。「市場」は、顧客=消費者の側をよく見ており、そこから影響を被る存在でもあるといえます。これを旅に置き換えれば、一人ひとりの旅人の意識が高まり、「サステナブルな旅」が増えたり重要性を増したりすれば、「市場」の側もまたそれに合わせた観光・旅行商品やサービスを生産・流通させようとする可能性があるということです。
旅人の側から「新しいスタンダード」を提示し、企業や「市場」といった「構造」の側を動かしていくことが可能だとすれば、旅人一人ひとりの努力を大きな渦へと変えていく可能性もそこに見いだされると言えるでしょう。一人ひとりの「サステナブルな旅」への意識はそれゆえに、「塵も積もれば山となる」以上の重要な意味があると考えられます。
グローバルな環境問題の危機が、私たち一人ひとりに平等・同一に配分されているわけではないこと、そしてその背景にある社会経済的な問題をクリティカルに考えていくこと。そのうえで、一人ひとりの、ひとつひとつの旅にできることを考えていくこと。それは容易とは言えませんが、しかしながら模索されていくべきものだと考えられます。そのような問題意識とともに「サステナブルな旅」を考えてみることも大切ですね。
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