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「ローカル」
この言葉を聞いて肌感覚で私たちが思い浮かべるのはおそらく、地域らしさとか、地域の伝統や文化や歴史、地域住民の生活風景、といった、どことなく温かみを感じるような事柄だと思います。
旅は、一側面においては、地域の人びとの日常生活に触れたり、彼らと交流したりすることに自らの魅力を位置づけてきました。極端にいえば旅とは「ローカルの探求活動」であり、自らが属していた「ローカル」から離れて、どこか別の「ローカル」を訪れ、帰ってくる移動活動と表現できるかもしれません。
今回の【後編】では、今述べた2つのローカル(自分の地域のローカルと、旅で訪れるローカル)の間に存在しうるギャップについて考えながら、ローカルという一言の内側にありうる複雑さや、多様性に目を向けてみたいと思います。
あなたのまちに「ローカル」はありますか?
突然ですが、あなたは今、どこに住んでいますか。
○○県○○市、○○区、あるいは○○村、○○地区‥‥‥どういうかたちであれ、みなさんは住所によって区切られた特定の「地域」にて生活しています(読者には、二拠点生活や、移動を繰り返す生活をしている方も少なくないかもしれませんが…)。ではあなたは、あなたが属するその地域(たとえば「○○市」)に、どれほど帰属意識を持っているでしょうか。愛着はどうでしょうか。あなたは「○○市民らしい人間」だなんて思いますか? 「○○市らしさ」ってどういうものですか?
こうした質問をいざ投げかけられると、いまいちピンとこない方も少なくないのではないでしょうか。
もちろん、それは人によるでしょう。いえ、今回の記事で重要なのは「人による」というまさにそのことなのです。少なくとも地域の人びとのなかには、「らしさ」を明確に言語化し見定めている人もいれば、曖昧に受け止めている人もいるし、そもそも「そんなものない」と考える人もいるでしょう。そしてもしかしたら多数派を占めているのは、「そんなこと考えたことすらないよ」という人びとである可能性もあります。(もちろん、たとえば「自分らしさ」のように、それは言語化されるというよりも行為や行動にあらわれるものでもあるかと思いますが)。
そういうふうにして考えてみると、ひとつの疑問が浮かんできます。
自分の住む地域の「地域らしさ」については曖昧なのに、旅においては目的地の(明確な)「地域らしさ」があると自然に考え、それを求めてしまうのはなぜなのでしょうか。
これはこの記事を書いている私の、長らくの疑問でもあります。これは個人的な逸話ですが、私の出身地である札幌に友人が遊びに来た時、「札幌らしいところ連れてって」と言われて困惑したことが何度もあります。少なくとも私にとっては、「札幌らしさを教えて」という旅人の言葉は、少しばかり苦痛を伴うものでした。
どうでしょう、自分の地域に対する「らしさ」の感覚と、目的地に対する「らしさ」の欲求との間には、なにやらアンバランスな関係がありそうな気がしてきませんか。
この問い自体はきっと、すぐに答えが出るものではないでしょう。もしかしたらそのアンバランスさが、そもそも旅や観光の本質である可能性もあります。
「人による」の動態性をつかむ:多様性と可変性
さて、「人による」という点に戻りましょう。ここではこの言葉を、「多様性」と「可変性」という2つの意味を込めて使うことにします。多様性とはつまり、たくさんの人がいてそれぞれ違うことを考えているということを意味します。いろんな意見があり、みんなちがって、みんないい…そうした、水平的なイメージです。
対して可変性は、垂直性を帯びています。端的に言えば、一人の人間だって時間が経ったり何かのきっかけがあったりすれば、考え方が変化しうるという可能性です。人間の数だけ違いがある(多様性)という点だけを強調すると、どうしても「個々の意見は変わらない」という点が前提されてしまうところがあります。多様性は、違いを捉えることはできても、変化は捉えられません。
たくさんの人がいて、たくさんの意見があるだけでなく、それら個々の意見もつねに変化しうる。そのようにして、「違い」も、「変化」も、ともに許容できるような考え方、いわば「人による。時と場合にもよる」とでもいえる考え方が、ローカルを考える時には必要です。
なぜならローカルをめぐる意識や考え方も、きっと「人による」し、同じ人であっても「時と場合によって」考え方やイメージが変わるものだからです。そうした多様かつ可変的なものとして「ローカル」を考え、想像力を働かせることは大切です。端的に言って、「観光地で生活するすべての住民が、旅人が期待したりガイドブックが表象したりしている「地域らしさ」を同じように引き受けているわけではない」のですから。
旅に活かしたい、「かもしれない」の想像力
旅や観光は特定の地域・場所を訪れる行為であるからこそ、良い影響も悪い影響ももたらしてきました。それゆえに、観光客が来てもよい空間(表舞台)と、観光客に来てほしくない空間(裏舞台)とが隔てられてきました(【前編】参照)。
旅は、そうした隔たりすら自らの欲求の対象にしてしまうところがあります。最悪の場合、ローカルを志向するあまり地域の日常生活やプライベートに土足で踏み込むような旅のあり方にもつながってしまいます(白川郷など、そうした例が実際に生じたケースは枚挙に暇がありません)。
しかしひとつの観光地でも(あるいは地域でも、集落でも、路地でも)、そこに住む人はさまざまであり、それぞれが地域について、観光について、観光客について、それぞれ考えを抱いている(あるいは抱いていない)かもしれないということを、いまいちど想像してみることが必要かもしれません。観光への向き合い方が、地域住民の諸個人で異なるかもしれない(またそれはつねに変化するかもしれない)。オーバーツーリズムや従来の旅/観光の負の影響の原因は、もしかしたら、その「かもしれないの想像力」の欠如にあるのではないでしょうか。
「ローカル」の内側へ:個別具体的な旅の可能性
そのように考えていると、果たして旅や観光の目的地は本当に「地域」や「ローカル」のままでよいのだろうか?という考えにも近づいてきます。旅において私たちは、もっと明確で、具体的で、個別的な経験をしてきたはずではなかったでしょうか。地域やローカルという考え方はどうしてもそうした個別性を集約してしまうので、動態性(人による、時と場合にもよる)が見えにくくなってしまいます。
反対に、個別具体性を前面に出した旅を再想像してみるなんてことはどうでしょうか。
たとえば、「地域」ではなく、特定の「○○さん」や特定の活動者と会うこと/一緒に何かをすることを目的(地)とした旅。個別具体的な関係をつくり、個別具体的な関係において進行する旅。そこではお互いが顔の見えるパートナーであり、もしお互いの行為に問題があれば気兼ねなく指摘し合い、さらに良い旅を作っていけるような旅。
そうした「ペア」の数だけそこに「ローカル」が生まれ、同時に、そこに「旅」が生まれていくと思います。旅人の○○さんと、その地域の△△さんとがつくる旅なのですから、そこで生じる「ローカル」の経験や「旅」の経験は個別具体的なものとなるはずです。個別具体的とはつまり、固定的ではなく動態的であり、一回きりの経験だということです。
もちろん、移動を経てどこかの地域には行くことでしょう。しかしそこで経験するのは、何かを食べる、「名前と顔のある誰か」と会う、何かをする、どこかで寝る、何かを見る、といった個別具体的な行為と体験です。旅をつくっているのはそうした個別具体的な経験や関係の積み重ねにほかなりません。
そのように考えれば、同じ地域に何度もリピーターとして訪れる理由も見えてきます。顔の見える○○さんにまた会いに行きたい。あるいは、(今回は知り合えなかった)別の△△さんとも話してみたい…個別具体的で一回的な経験をそのつど、地域の個別具体的な誰かと(種々の負荷の少ない形で)一緒に楽しむ(そして、その唯一の体験者である旅人が、その経験を別の旅人にもシェアしていく…)。それはサステナブルな旅の新しいあり方、循環のあり方の可能性を秘めていそうです。ペアの数だけ旅がある。
「人によるよね。時と場合によるよね」。それは議論においては思考停止の終着点となりがちですが、旅においては、固定観念を解体し、肯定的に対話や新たな旅のあり方をつくっていく出発点となりうるものです。「ローカル」はむしろ、そうした個別具体的な個人と旅人との協働的かつ対等な関係のなかで、結果的に可視化されてゆくものなのでしょう。
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