不気味な「自然」の現前
朝、日が昇ることが当然であるように、私たちにとって「自然」とは、安定したリズムや法則のもとで「いつでもそこにあるもの」でした。自然法則はつねに不変/普遍であり、オゾン層はいつでも太陽の強い光から地球を守ってくれ、海や森林や土壌は人間の生命に不可欠な酸素や水をもたらしてくれる。「自然」は私たちの人間活動を支える必要不可欠な「土台」にほかなりません。
しかしながら今日の気候変動をはじめとする自然環境の変化は、そうした「安定した土台」としての「自然」を大きく揺るがしています。自然環境という「土台」のうえで人間が創造的な活動を営むという認識は、根本的な再考を求められています(Strathern 1995:424)。地震や気温上昇などを想起すれば、「自然」は不確実で予測不可能な存在として、あるいはきわめて「不気味な」存在として私たちにその姿を現す機会がますます増えているようにも思われます。
「自然」の問題は科学者に任せておけば良い?
「自然」が引き起こす災害や「異常」な現象について、私たちはある意味で「特殊な」想像力を働かせています。それはたとえば、「○○年に一度の規模の山火事」「前代未聞の大雨」「〇年ぶりの連続真夏日更新」といったものです。
そうした独特な「自然」の形容を、ニュースでは盛んに目にします。作家のA.ゴーシュは、そうした語り口が増殖し「ありふれた」ものとなっていくなかで、私たちは地球上に生じているさまざまな事象をまるで宇宙や他の惑星を舞台とした「サイエンスフィクション(SF物語)」のように受け止めるようになってしまっていると警鐘を鳴らします(Ghosh 2017)。
この指摘には2つの意味があります。第1に、自然災害や問題をサイエンスフィクションのように受容することで、その問題が地球という同じ地平において「現実に生じている」という感覚を失ってしまうことへの批判です。地理的に遠い場所で起きた天災は、しばしばその映像の力強さや「スペクタクル」、あるいは「怖いもの見たさ」のような感情でのみ消費され(「すごい映像だ!」)、現象とその原因自体は真剣に受け止められないことがあります。それは「どこか遠くの国や地域」で生じた問題であり、自分には関係ない、と。
Ghoshが2つ目に指摘するのは、現実に生じているそうした自然環境の問題に向き合うための想像力を、私たちが「科学者」や「政治家」といったアクターにまるごと委ねてしまっている可能性です。災害への対処や予防、そしてたとえば二酸化炭素排出量の減少といった問題に対して対処するべきなのは(対処することができるのは)政治家や科学者であり、市井の生活住民ではない、と考えてしまう態度のことです。「気候変動の問題は政治や経済(企業)、そして科学技術がなんとかすべきである」と。
これら2つの態度や想像力は、どちらも自然環境の問題を「他人事」として自らから遠ざけるやり方になっています。しかし今日の地球環境に生じているさまざまな自然の問題は、私たち一人ひとりの人間活動の結果としても現れていることを忘れてはならないでしょう。もちろん、企業や政治活動、あるいは戦争などの大規模な人間活動による影響は甚大です。ですが、それだけが問題ではないと考える必要があるでしょう。
2度「追放」された「自然」
自然環境の問題をテレビやSNSのスペクタクルな映像のなかでのみ「消費」したり、「政治がなんとかするべき」と考えて問題を自分の関心から遠ざけたりすることは、抽象的にここで敢えて名前を付ければ、近代における「自然」の「2度目の追放」にほかなりません。
近代的な思考の枠組みが、「自然」を「人間」や「文化」「社会」の領域の「そと」にあるものとして位置づけ、その結果として「自然」を操作や支配やコントロールの対象とし、開発や資源化を押し進めてきたという点については以前の記事( https://sustabi.com/8774)でもとりあげました。(そちらについての詳細はぜひ当該記事をご参照ください)
そのような「1度目の追放」の結果、追放された自然が私たちに反旗を翻すかのごとく、今日の自然環境問題が生じているといえます。しかしながら、その自然を私たちは、先述したとおり「テレビの中の、見ごたえのあるどこか遠い出来事としての自然」であったり、「政治や科学がなんとかすべきものとしての自然」として受け止めてしまっているのです。自然の「2度目の追放」とはすなわち、追放された自然がもたらす現象を他人事としてさらに突き放すような態度のことですね。
自然と出会い直すために
「自然」を2度も「追放」してきたことの帰結として、今日の地球温暖化や環境問題が存在している側面があります。サステナブルな社会に近づけていくために必要なことのファーストステップは、そのようにして遠ざけてきた「自然」との距離を縮め、向き合うこと、あるいは出会い直すことなのではないでしょうか。
森林の大規模な伐採、エネルギーの問題、二酸化炭素の排出量の問題、海洋・土壌プラスチックの問題、フードロスの問題などなど、現在生じている「自然」をめぐる問題について、「私たちの遠い世界で生じているSF物語」のように捉えるのではなく、それらがいかに私たちの日常生活と結びついて存在しているのかを想像してみることが必要です。そして、自分にできることがないかを考えてみることが大事だといえます。政治や企業の変化を期待し、待っているだけでは取り返しのつかないことになる可能性もあります。
近年ではSDGsが学校教育で説明されているように、持続可能性への問題意識はじわじわと社会に広がり、高まりつつあります。この流れを維持し、大きくしていく必要があるでしょう。
そのとき、旅にできることはないでしょうか。旅や観光は、慣れ親しんだ日常生活圏から一歩離れて、これまではよく知らなかった物や社会や自然と新たに出会うきっかけとなります。また身近な場所を旅・観光する場合でも、これまでの日々では気づくことのなかった発見に出会ったり、「当たり前」だと思っていたことが「異化」され、驚きとともに出会い直したりする可能性に満ちています。そこには、「自然」との距離を縮めるための旅や観光を構想していくヒントがあるのではないでしょうか。
旅先の自然体験プログラムに参加することで、自然環境について理解を深めたり、各地の「自然との向き合い方」を学んだり。地産地消の食事を意識することで、フードロスを減らそうとしたり。二酸化炭素の排出量を意識して旅の移動手段や行程を考えることで、自身の「移動」とその地球環境との関係性について意識的になったりと、旅や観光のなかで地球や「自然」との距離を縮める方法はたくさんあります(「サスタビ20ヶ条」もぜひご参考に)。また、日々私たちが食している肉や野菜がどのように生産され、流通し、食卓へと渡っているのかという「食の移動経路」を考えることなど、日常生活の延長線上で意識できることもあります(そうした食の経路を学ぶための体験プログラムもあります)。
「自然」と私たち人間は(そして文化や社会は)決して別々のものではありません。いま、分断されつつあるそれらの結び目をふたたび繋ぐために旅や観光にできることを、さらに考えていく必要があるでしょう。
※この記事は「自然との向き合い方を考える:「人新世」というキーワード」と合わせて読むことで理解が深まります。ぜひこちらもご覧ください。
参考文献
- Ghosh, A. (2017). The Great Derangement: Climate Change and the Unthinkable (Paperback edition), The University of Chicago Press.
- Strathern, M. (1995). Future kinship and the study of culture, Futures 27(4):423-435.
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