「切り身」ではなく「生身」の関係で食と向き合う#サステナブルと食

食との向き合い方を省みる

前回の記事(「食とサステナブルに向き合うために知っておきたい基礎知識」)では、食の「トレーサビリティ」についてご紹介しました。

私たちの食べ物が辿ってきたプロセス――食の生産から、流通、そして廃棄まで――が、どれだけ「見える化」されているかを示す「トレーサビリティ」。

今回の記事ではこのキーワードについてもう少しだけ深堀りして、私たちと「食」とのサステナブルな関係性を考えてみたいと思います。

スーパーマーケットにいる動物たち

一般に、私たちの日常生活において動物と接する機会はそこまで多くないかもしれません。

埼玉県のとあるベッドタウンに居を持つ私が普段見かけるのは、カラスやハトや群れをなすムクドリ、野良猫、あるいは近所で飼われている犬や猫……くらいでしょうか。動物に触れるような機会は、動物園やペットショップ、動物カフェ等の場所に行かない限りは滅多にありません。自然豊かな環境で生活されている方や、農業などをされている方にとっては異なる状況だと思いますが、私と同じような方も少なくないものと想像します。

しかしそんな「私たち」にも、頻繁に、上に挙げた以外の動物と「出会う」機会は実はあります。それはスーパー・マーケットです。

スーパーでパック詰めされて販売されている、肉や魚。切り身やすり身、ひき肉、あるいはハムやソーセージなどに加工された姿で、動物は私たちに姿を見せています(魚の場合、一匹そのままで売られていることも少なくありませんね。他方で、スーパーで売られている「切り身」がそのまま海で泳いでいると思う子供がいるとかいないとか、そういった冗談交じりの「都市伝説」を知っている方も多いのではないでしょうか)。

そうしてパック詰めされた、「切り身」は、じつは地球のサステナビリティを考えるうえで私たちに多くのことを教えてくれる存在なのです。

自然との関わり方――「切り身」と「生身」

人間が、人間以外の存在といかに「よりサステナブルな」関係性を紡いでいくことができるのか――今日もとめられているこの重要な問いのなかには、人と動物の関係性も含まれています。

そして、自然にせよ動物にせよ、私たち人間とそれらの存在との関係性は、「想像力」から始まります。人間にとって動物はどのような存在か。自然は、どのようなものなのか。私たちが動物や自然を「支配してよいもの」「好き勝手にできるもの」と想像している以上は、サステナブルな社会は遠そうな気がしますよね。逆に、私たち人間の生活を支えてくれている存在として、あるいは、私たち人間と「共に生きる」存在として想像してみると、持続可能性な地球・社会を「一緒に作っていくパートナー」として彼らはあらわれます

自然や動物のことを「どのように想像するか」。私たちの「想像力」が、サステナブルな社会の実現にあたって重要となっているのです。

その「想像力」を考える時に、スーパーマーケットにおかれている肉や魚の「切り身」は面白いテーマです。パックに詰められた「切り身」も当然、私たち人間と動物との関係性の一側面にほかなりません

「切り身」化していく、動物への想像力

『自然保護を問いなおす』(1996、ちくま新書)というすぐれた書籍を著した、環境倫理に詳しい鬼頭秀一の説明をお借りしたいと思います。

鬼頭は、今日ますますの勢いで深刻化している環境問題を解決するためには、「自然」や「環境」に対する私たちの想像力の「全体性」を回復することが重要であると述べています。

「全体性」は少し抽象的な言い方ですが、「トレーサビリティ」を思い出してください。トレーサビリティは、例えば昨夜に食べたハンバーグのひき肉が、誰によってどのように生産され、どのように加工・流通されてスーパーマーケットに届いたのか、そして売れ残ったり食べきれなかったりしたその肉がどのように「廃棄」されるのか、といった「食をめぐる一連のプロセス」を見るためのキーワードでしたね。

「全体性」とは、この「食をめぐる一連のプロセス」の全体像のことだと言えます。食に限らず、私たちの生活を取り巻いている「自然環境」の全てにおいて、「一連のプロセス」は存在しているはずです。今座っている椅子はどこで作られたのか。今朝捨てた生ゴミはどこで処理されているのか。私が着ている服の原材料は何で、どこで作られたのか。電気やガス、水道はどのようにして作られ、家庭に届けられているのか。

環境問題の解決には、「食をめぐる一連のプロセスの全体像」を私たちが意識すること、そこに想像力を働かせることが必要不可欠なのです。

しかし、「切り身」の姿で私たちの前に現れる肉や魚は、私たちが動物に対する想像力を失いつつある今日の状況を象徴的に表している――鬼頭は、そのような問題提起を行います。以下、彼の説明を見てみましょう。

わたしたちは、毎日食事をしているが、例えばそこで食べている肉料理の材料の肉は、おおむねスーパーマーケットで、肉片をパック詰めされたものを買ってきたものである。それは、肉の切り身のもととなった動物がどういう形で育てられたのか、そしてどのように屠殺されたのか、そしてまた、いかなる流通の経路を通ってマーケットに運ばれたのかという、さまざまな社会的・経済的リンクをまったく知らずに、それゆえに、そうしたリンクからまったく切り離された形でわたしたちのもとに来ている。(中略)そのような、動物の誕生から始まり、肉片がマーケットに送られてそこでパック詰めされるまでのそれぞれの過程の中でのさまざまにへばりついていた社会的・経済的なつながりのもろもろのものを全て捨象した形で、その肉片は、まさに「切り身」として、わたしたちの食卓に並んでいるのである(鬼頭, 1996:127-128)

スーパーで並べられている「肉」となったその動物とは、私たちはごく限られた関係性しか紡ぐことができません。それを買い、調理し、食べ、捨てることに限られることがほとんどです。

パック詰めされた肉片から、その動物のかつての生きていた姿や、屠殺される姿を想像することもないでしょう。そうした、動物とのごく一部に限定された関係性のあり方を、鬼頭は「切り身」の関係と表現しているのですね。

「切り身」を一種の比喩表現として捉えるならば、私たち人間にとっての動物や「自然」「環境」の姿が、今日ではひじょうに「断片化」しつつあるということかもしれません。言い換えれば、自分の生活を取り巻いている「環境」について、私たちは断片的なイメージしか持つことができなくなりつつあるということでもあるでしょう。

想像力を取り戻す――「切り身」から「生身」へ

鬼頭は、そうした食との「切り身」的な関係と対比して、食材のもととなった動物との社会的・経済的なつながり(あるいは文化的・宗教的つながり)を維持したままそれを食べる関係性を「生身」と表現しています。

そういう状況[引用者註:「切り身」として肉が食卓に並ぶという状況]は、(中略)あるどこかの遊牧民が、彼ら自身の生活の中で、つまり、ある特定の社会的・経済的リンクと文化的・宗教的リンクの中での生業の営みの中で、飼育し、またその過程の中で特別な感情を抱いている動物を、文化的・宗教的な意味あいを持ったある特定の儀礼の中で、自ら殺してそれを食べるという一種の社会的・宗教的な営みを行うという、まさに「生身」のあり方と対比的に考えることができる(鬼頭, 1996:128)

ここで鬼頭が述べている対比は、たとえばペットとして飼っている鳥と、スーパーでひき肉になっている鶏肉との関係に当てはめることができます。ペットとしての動物は私たちと「生身」の関係を構築しているのであり、私たちはペットの動物のあらゆる世話をし、多くの場合は名前を付け、コミュニケーションをとりながら一緒に生活しますね。そして、死別などの理由によって悲しくもその関係性が終わってしまうその時まで、私たちは連続した関係性を動物と紡いでいます。

 

「生身」の食肉の姿は、「切り身」に慣れた私たちにとっては少々ショッキングかもしれません。牛が肉となって吊るされ加工工場内を運ばれる姿や、鶏が羽をむしられ首を落とされた姿。「肉」の過程は、私たちにとって強烈な他者性として現れます。そこには「気持ち悪さ」や「怖さ」があるかもしれません。生きている存在を屠り、食べるという過程に不可避に存在する、そうした生々しい過程を「切り身」は忘れさせてくれます。しかしそうした現実から目を背けず、私たちが何を食べているのかをみつめる態度が大切です。それを食べているのですから。

食に対する想像力を豊かにすることが大切

生きていくうえで必要不可欠な「食」。食は、サステナブルな社会の実現のために、じつに多くのことを教えてくれるトピックです。

そして食を考えることは、動物(そして動物が生きる自然環境)のことを考えることでもあります。また、動物について考えた今回の記事をヒントに、植物や穀物(野菜など)について考えてみることもできそうですね。

食をめぐる問題は数多く存在しています。工業的な食肉生産の諸問題、労働問題、飼料や飼育環境の問題、農薬や添加物の問題など、私たちの目からは普段は隠されている問題がたくさん存在します。食は私たちの生活の一番身近な問題であるからこそ、そうした問題から目を背けず、ひとりひとりが考えていきたいですね。

スーパーマーケットに売られている「切り身」を私たちは買わざるを得ません。しかし、そこから想像力を働かせていくことは、たとえ目の前にあるのが「切り身」であっても可能なはずです。

「切り身」の想像力から、「生身」の想像力へと進化させていくためにできることはたくさんあります。「この食べ物はどこから来たのだろう?」と疑問に思ってみるだけでも、大きな一歩です。ほかにもたとえば、食肉産業について学ぶ、食べ物の生産・流通プロセスを調べてみる、畜産の過程や屠殺の過程についての本やドキュメンタリーをチェックしてみる、農家や畜産業に携わる方の生活について調べてみるなど。また、地産地消に取り組む飲食店に行くことや、食のプロセスを観光しながら学ぶことのできるツアーに参加して見ることも大事です。サスタビでもたくさん紹介しています。

また、フード・ドキュメンタリーもたくさんあります。『おいしいコーヒーの真実』『フード・インク』『ある精肉店のはなし』『FOOD CHOICES』など。気になったらチェックしてみてくださいね。

参考文献

鬼頭秀一(1996)『自然保護を問いなおす――環境倫理とネットワーク』筑摩書房。

 

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