オーバーツーリズム
今回の記事では、「オーバーツーリズム」についての解説をします。定義や問題を簡単にふりかえったうえで、とくに「観光公害」との関係や違いについて注目してみましょう。
オーバーツーリズムってなに?
観光客が押し寄せ、大混雑を引き起こしている映像やニュースをみなさんも一度は見聞きしたことがあると思います。地域側の対応可能な量を超え、観光客すら混雑によって観光がままならなくなり、地域の自然や景観にも悪影響が及ぼされている、そのような状況をオーバーツーリズムと呼びます。
オーバーツーリズムと関連の深い言葉として、「キャリング・キャパシティ」という言葉があります。それはUNWTO(国連世界観光機関)によって次のように定義されています。
訪問者の満足度を著しく損なうことなく、また物理的・経済的・社会的・文化的環境を破壊することなく、特定の観光目的地を同時に訪れることができる最大人数
つまり、この定義に示されている「最大人数」を超えてしまう量の観光客が地域や観光地を同時に訪れてしまったとき、オーバーツーリズムは生じてしまうということですね。
コップに際限なくお水を入れてしまうと、いつかは溢れてしまいます。そうならないようにするためには、水をゆっくり注いだり、時間をわけて注いだりしなければなりません。あるいは、コップを新しく増やすことも選択肢でしょうか。それと同じように、オーバーツーリズム対策でも、観光客の人数制限が図られたり、観光客の一極集中を防ぐため「分散」の工夫が模索されたりしてきました。
観光公害とはどう違う?
オーバーツーリズムについて、「観光公害とオーバーツーリズムは同じですか?」という質問がしばしば寄せられます。新聞記事などをみていても、「オーバーツーリズム(観光公害)」や、「観光公害やオーバーツーリズム」などのように併記されているケースをみなさんも見たことがあるかもしれません。このふたつはどういう関係なのでしょうか?
質と量
オーバーツーリズムはいうまでもなく「オーバー(over)」と「ツーリズム(tourism)」が足し合わされた造語です。直訳すれば「何かを超え出てしまった観光」といえます。「過多的な観光」「過剰観光」「オーバーな観光」とも訳せるでしょうか。
その「超え出る/過多/過剰」という語のニュアンスのとおり、オーバーツーリズムの問題はしばしば「量」の問題として検討されています。
地域側が対応することができる観光客の「人数」、一度に来訪しても問題がない「人数」、増え続ける観光客に対応するために乱立してゆくホテルの「数」……。オーバーツーリズムにとって根本的な問題は、来訪する観光客の「数量」にある。そのような認識が一般的だと思われます。
それにたいして観光公害はどうでしょうか。JTB総合研究所の説明を見てみると次のように示されています(註1)
観光公害とは、観光客や観光客を受け入れるための開発などが地域や住民にもたらす弊害を公害にたとえた表現のこと。英語ではOver tourism(オーバーツーリズム)が用いられることが多い。
注目すべきは2点あります。第1に、先ほど述べたように、「観光公害」の英語版が「オーバーツーリズム」とされることが多いという点です。この説明を見る限りでは、観光公害とオーバーツーリズムはきわめて類似したものと認識されているようですね。
第2点目は、「観光客や観光客を受け入れるための開発などが地域や住民にもたらす弊害」というところです。観光客が来訪することによって地域に生じる問題のこと、あるいは観光開発によって地域の景観が損なわれたり、観光用・商業用の空間が地域に作られることによって地域住民の分断が起きてしまったりするなどの諸弊害が念頭に置かれていますね(この「分断」については、「ジェントリフィケーション」という言葉を調べてみると理解が深まると思います)。
この説明を見る限りでは、「観光公害」においてはオーバーツーリズムほど「数量」やキャパシティの問題が前面に出てきてはいないように感じられます。むしろ「観光」というものがそもそも有している「負の側面」「デメリット」が、言い換えれば観光の「負の性質」が問題視されているように思われます。
強引に整理するならば、オーバーツーリズムは「量」を、それに対して観光公害は「質」あるいは「数量・質を含めた観光の負の影響の「総体」」を念頭に置いた概念であるとみることができそうです。この意味で、オーバーツーリズムは観光公害の一部という関係にあるといえるでしょう。
原因と結果
もしくは、次のような整理もできるかもしれません。オーバーツーリズムは、先ほど確認したように、地域が観光客に対して対応できる許容量を示す「キャリング・キャパシティ」を超えてしまう量の観光客が訪れることで生じます。そして、そのオーバーツーリズムという状態(原因)によって、「観光公害」(結果)がいっそう拡大してしまうという関係があるといえます。
いわば、原因・状態としての「オーバー」と、結果としての「公害」という理解です。
観光公害のなかには、たとえ観光客の絶対数が少なかったとしても生じてしまうものがいくつかあります。たとえば白川郷などで生じた、観光客が地域住民の敷地に勝手に入ってきてしまうなどの問題は、観光客の振る舞いや意識の次元にそもそもの問題の原因があるのであって、観光客の数が多いからその問題が生じているとは必ずしも言えません。
観光客を満足させるために地域住民が一定の「感情労働」(註2)を(多くの場合は善意にもとづきつつも)強いられてしまうといった問題も、数量というより、むしろホストとゲストの上下関係という「観光がそもそも抱えている構造的な課題」に関わるものだといえるでしょう。
すなわち、観光公害は、観光の「質」的な問題やそもそも観光が内包している負の側面の「総体」を含んだ概念であり、それに対してオーバーツーリズムは、観光客の「数」が増えること、あるいはそれによって生じる負の影響を指した概念であるという理解が可能です。
しかしややこしいのは、オーバーツーリズムは「原因」と「結果」の双方をその言葉で表現するという点です。オーバーツーリズムは、観光客が一定のキャパシティを超えて集中してしまっているという「状態」を指す言葉でもありますが、他方で、そのキャパシティ超えによって生じる混雑や環境破壊などの諸問題も含めてオーバーツーリズムと呼ぶ場合もあるのです。①観光客の集中・過剰と②それによる諸問題という2つの要素が含まれている点がすこし複雑ですね。
オーバーツーリズムの定義を更新していく必要性
オーバーツーリズムのこの「わかりにくさ」を受けて、オーバーツーリズムの定義を更新・改善していこうとする認識も高まっています。
たとえば現状の定義の問題点としてしばしば挙げられるのは、オーバーツーリズムが依拠する概念である「キャパシティ」は、人や立場によって違うという問題です。言い換えれば、「オーバー」であることは必ずしも「混雑」を意味しないということであり、何が「過剰」であるかという評価は人によって異なるということです。
観光地や施設のキャパシティの場合は、面積や通路の数などに応じて観光客数の時間当たりの上限人数を設定することは出来ると思います。他方で、たとえば日常生活をしている地域住民の場合、人びとの「日常」のなかに観光客が入り込んでくることそれ自体が「過剰」「オーバー」となりうる可能性も存在するのです。
日々の通勤通学の電車に観光客も乗るようになって満員電車になってしまったとか、「路地裏観光」という名目で住宅街にも観光客が来るようになり勝手に自宅の写真を撮られてしまうようになったといった、けっして「数量」では理解も解決もできない問題も生じています。
またいうまでもなく、地域内でも人によって「キャパシティ」は異なるという点も見過ごせません。
どれくらい観光客が来ると「過剰」「オーバー」になってしまうのかという認識は、地域において必ずしも共通の了解に至るとは限らないということですね。オーバーツーリズムにおけるキャパシティの「数量」に絶対的な基準はなく、むしろたくさんの基準があります。そして、観光客の数が少なかったとしてもオーバーツーリズムの問題が生じる可能性があるということが、今述べた日常生活の観点からは見えてきます。
オーバーツーリズムの定義に、そうした質的な側面や地域の多様な認識の側面をいかに組み込んでいくか、という問題はまだ残されています。
次回
オーバーツーリズムは、新型コロナウイルス感染症の大流行を経て、一定の落ち着きを見せているかのように思われています。しかしオーバーツーリズムは決して「終わったこと」ではありません。たしかに観光客の絶対数が2019年から減っているとしても、今回の記事で確認したように、「オーバーツーリズムの「数量」には絶対的な基準はなく、観光客の数が少なくてもそれは生じる」可能性があります。そして2023年になって観光も一定の盛り上がりを復活させてきたいま、オーバーツーリズムの問題を引き続き考えていくことが求められています。
次回【後編】では、今述べた問題意識を念頭において、「オーバーツーリズムはどこでも生じる可能性がある」という点をもう少し掘り下げてみたいと思います。
註
- JTB総合研究所「観光用語集――観光公害」(https://www.tourism.jp/tourism-database/glossary/tourism-pollution/ 2023年10月13日確認)
- 接客業では従業員が「笑顔」であったり、顧客に「心地よい」と思わせるような表情・話し方・身振りをすることが求められ、それがサービスや商品の「質」にまで直接的に影響を与えるようになっています。従業員は自身のプライベートの状況を客に対して隠し、お客や店のコンセプトが求めるような「店員らしさ」を演じることを求められており、しかも今日ではそのようにパフォーマティブに自己を演じながら接客をすることそれ自体を「やりがい」とか「おもてなし」といった言葉で称揚する動きが高まっています。こうした労働の状況を、「感情労働」、あるいは「パフォーマティブ労働」と呼んで批判的に検討する議論があります。詳しく知りたい方は以下をご覧ください。
- アーリー・ラッセル・ホックシールド(2000)『管理される心――感情が商品となるとき』石川准・室伏亜希訳、世界思想社。
- アラン・ブライマン(2008)『ディズニー化する社会――文化・消費・労働とグローバリゼーション』能登路雅子監訳、明石書店。
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