シビック・プライド
近年とても注目を浴びているこの言葉、シビックプライド(civic pride)。みなさんはご存じでしょうか。
この言葉は、(都市や地域に対する)「市民としての誇り」という意味をもち、それを高めることが地域活性化・地方創生の鍵を握ると考えられています(※註1)。
地域から見れば「ヨソからやってくる者=ヨソ者」の立場にある旅人と、このシビックプライドのあいだにはどのような関係があるのか、考えてみたいと思います。
「郷土愛」とは違う?
「地域に対する誇り」と聞くと、それは郷土愛や地元愛と同じなのではないか?と思う方も少なくないと思います。しかし、じつは郷土愛・地元愛とシビックプライドには違いがあるのです。
郷土愛や地元愛は、その地域に住む者や、かつて住んでいた人びとが地域に対して抱く肯定的な感情のことです。そこで生まれた人、そこで育った人、そこで長らく生活をした人……ようするに、期間はどうあれとして、「地域住民」である/あった人が語るのが郷土愛や地元愛といえます。「地元」の英訳が “home town”であることを想起すれば、旅人がそこに属さないことがよくわかります。
しかし、特定の地域に対して愛着を感じることは、その地域に住んでいる人でなくともあり得るはずです。たとえ1日しかその地域を訪れていなくとも、あるいは数時間しかその地域に滞在していなかったとしても、来訪者がその地域に対して地元愛と似たような感情を抱くことはしばしばあります。「旅や観光で1度だけ訪れたあの場所が忘れられない」……旅人のみなさんにも、そのように恋焦がれた場所や地域がきっとあるのではないでしょうか。
シビックプライドは(地域住民による)地元愛や郷土愛という意味に加えて、地域住民ではない人びとが抱く地域への愛着や誇りという意味ももった言葉なのです。
流動的な動きのなかでコミットすること
旅人は、先ほども述べたように「地域のヨソ者」です。いつの間にかやってきて、いつかは帰ってしまう一時的な存在です。
この一時性という特徴は、地域活性化や地域の諸問題の解決に対して旅人がコミットしようとする際の、大きな障壁だと考えられてきました。地域にコミットする主体は、住民や行政などその地に根を張って暮らす人びとである(べき)で、「いつかは帰ってしまう」旅人や一時的な滞在者に多くを期待することはできない……そうした考え方を土台にしながら、たとえば短い時間で多くの「カネ」を彼らに落としてもらったり、少しでも長い期間滞在してもらったりする方法が検討されてきたといえます。
旅人を大量に集めたり、長い期間泊まってもらったり、土産品などをたくさん消費してもらったりすることができれば、一時的な滞在者であっても地域経済への貢献が見込まれるでしょう。そのことは間違いありません。
しかし、人口減少問題を筆頭にこんにち露見している「地域の担い手不足」の状況下では、そのような解決は抜本的なものとはいえません。
一時的な滞在者を多く呼ぶための方法を考えるのはいつまでも地域住民や行政の仕事でありつづけていて、同時に、旅人や一時的滞在者の貢献は経済的なものでありつづけてしまうことになります。地域を救う方法について考える「地域を担う主体」としての地域住民・地域行政と、「カネを払う主体」としての旅人・一時的な滞在者。この図式は保存されたままなのです。前者の地域の担い手がどんどん減っていくなかで、いつまでもこの図式が変わらなければ、明るい未来を想像することは難しいでしょう。
旅人もまた地域において「考える主体」「地域を担う主体」になり、地域の諸問題に対して多様にコミットする方法はないのでしょうか。
そうした問題意識のもとで登場するのがシビックプライドなのです。シビックプライドは、そのように流動的で一時的な存在としての旅人もまた抱くことができるものであり、そのプライドの醸成をつうじて「旅人もまた地域を担う主体になっていく」ための手がかりとして注目されています。
旅人とシビックプライド:2つの貢献の可能性
これまでみてきたように、シビックプライドには①地域住民自身が地域に対して抱く誇りや愛着と、②旅人などの外部者が地域に対して抱く誇りや愛着、という2つの意味がありました。
以下では、そのそれぞれに対して旅人が貢献できることについてみていきましょう。
(1)-1 地域教育を育む外部者の視点
まず、地元愛や郷土愛と重なる意味でのシビックプライド。その醸成のために、旅人などの「ヨソ者」の視点が活用される機会が増えています。
地域住民を中心に据えたシビックプライドが目指すのは、地域活性化の取り組みに地域住民が内発的かつ積極的に「参加」することです。
地域住民が自らの地域により関心をもち、地域の諸問題と未来にむけてコミットしてもらうためになされるのが、広い意味での「地域教育」だといえます。地域住民が主体となり、地域の魅力を(再)発見し観光資源として磨き上げていく「宝探し」の取り組みなどはその一例です。
しかし、地域住民が自らの地域を客観視し魅力を発見していくためには工夫が必要です。普段何気なく目にしている景色や実践している文化的営為が他者にとって魅力あるものであることに気づくためには、地域外部の人びとの声が必要不可欠です。そのため地域教育の文脈において、地域外部の人びとからの声や視点をいかに収集するかという問題が重要なテーマとなっています。言い換えれば、旅人の視点が求められているのです。
(1)-2 旅人の「声」を届けよう
旅の思い出をSNSにシェアしたり、日記やブログを書いたりすることは、「旅人の視点」を地域に届ける有力な方法のひとつとなります。
旅で訪れたその場所で、どんな景色に感動したか。何を食べどう感じたか。不便に感じたことはないか。気づいたことを言葉にして発信することが重要です。
すでにたくさん発信している/発信してきたという方は、次のようなことをさらに意識してみてください。
まず、ハッシュタグなどで訪れた場所や地域の名前を記載すること。これにより、地域住民や地域行政の側が投稿を発見しやすくなります。
次に、投稿する内容について事前に事実確認・下調べをすること。地域に対する多様な声を発信することはいうまでもなく大切ですが、誤った情報を発信してしまうことは問題であり、地域に対する偏見や誤解(ステレオタイプ)を広げてしまっては元も子もありません。下調べや事実確認をすることはそうした問題を回避することにつながるだけでなく、旅人自身が地域についてさらに深く学び、関心や興味をさらに高めていくことにもつながります。
地域の一員としての旅人
旅人が、自らの地元について考えるのと同じ程度の熱量・本気さで、旅先の地域について考えること。そのプロセスがシビックプライドを醸成していきます。旅から帰ってきたらすぐに「次はどこへ行こう」と別の旅を探すのではなく、旅から自宅へと帰ってきたあとも自分が訪れた地域について考え続けること。たとえ一時的・定期的にしかその地を訪れることができずとも、地域についてコミットする気持ちを抱き続けること。そのうえで、上に述べたように、(自分の地元を紹介するのと同じふうに)旅で訪れた場所について発信したり、旅人としての自分にできることがないか模索すること。そうした実践の積み重ねの延長線上に、「地域の担い手不足」という問題解決の糸口があるように思います。
旅の思い出を発信することは、地域住民と旅人両方のシビックプライドを醸成することに役立ちます。また、ほかにも旅人がシビックプライドの醸成に向けてできること、そして旅人が地域の担い手になっていくためにできることがあるはずです。
一人ひとりの旅人がそれを模索していくことができれば、旅をつうじたサステナブルな社会の実現に近づいていくことができるでしょう。
この記事と関わる「サスタビの20ヶ条」はこちら!
今回はシビックプライドについて解説しました。地域について誇りや愛着、当事者意識をもち、「担い手」のようにコミットメントしていく可能性は旅人にも開かれています。
サスタビ20ヶ条と照らし合わせてみれば、「3 事前に旅先の歴史・文化をしらべておこう」「20 旅先で発見したサステナブルなサービスを友達とシェアしよう」が関わっていると思います。ぜひ、それぞれチェックしてみてください。
また、SNSやブログに加えて、サスタビサイトの「サスタビスポット」にあなたが旅のなかで発見したスポットを登録してみることも、地域側による地域の(再)発見につながる可能性をもっています。
ぜひ、みなさんのおすすめスポットや、みなさんがシビックプライドを感じている地域について教えてくださいね。
註
※シビックプライドは地域活性化の鍵として注目され、ひじょうに肯定的に使用されがちな言葉ですが、ここに含まれる「シビック」という言葉にはいくつか留意が必要だと考えられます。記事の内容とは直接は関わりませんが、興味のある方はぜひ掘り下げてみてください。第1に、まずこのシビックプライドという言葉/概念は 19世紀イギリス・ヴィクトリア朝の有力都市の興隆と不可分な概念であること、すなわちきわめて都市的な性格に根差した概念であることには目配せが求められるでしょう(Hunt 2004)。
第2に、自由主義改革が進められていた当時のイギリスにおいて「市民とは誰だったのか」という問題があります(今日においてもなお、より普遍的な問題として、「市民」は闘争を孕んだカテゴリーでありつづけているはずです)。シビックプライドを「誇りや愛着」として単純化しすぎることは、当時のシビックプライドの文脈からずれを孕む理解となりかねませんし、また極端に言えば「市民」概念をとりまく政治性・権力性から目を逸らすことでもある可能性があります。場所に対する誇りや愛着のことをなぜわざわざ「シビック=市民の」と形容しなければならないのか(そのように表現することで何を達成しようとしているのか)という問いはさらなる批判的検討が待たれるものと思われますし、「市民」をめぐって今なお争われている多様なトピック(人種差別や「性」をめぐる問題などはその筆頭でしょう)と無縁なものとしてシビックプライドを考えてはならないように思われます。そうした問題意識と通ずる研究としては、一例としてCollins(2016a,b)が挙げられるでしょう。彼は地理学的な観点から、今日のイギリス(事例ではノッティンガム)の都市政策において再評価されているシビックプライドの意味や特徴を細かく整理すると同時に、人びとの「感情」がいかに政治的対象として位置づけられ、動員され(あるいは争われ)、利用されてきたかといった問題についても批判的に検討しています。
参考文献
Collins, Tim (2016a). Governing through civic pride: pride and policy in local government, in Jupp, Eleanor, Jessica Pykett and Fiona M. Smith eds., Emotional States Sites and spaces of affective governance. Routledge pp.191-203.
Collins, Tim (2016b).Urban civic pride and the new localism. Transactions of the Institute of British Geographers. 41(2):175-186.
Hunt, Tristram (2004). Building Jerusalem: The Rise And Fall of the Victorian City. Weidenfeld & Nicolson Ltd.
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