「観光客は家族の一員」―グレーヴェ・イン・キャンティ
バブル経済の終わりが見え始めた1980年代末、日本の地方で「ないないサミット」というユニークな取り組みがありました。正式には「国道も鉄道もない市町村全国連絡会議」という名称です。国道も駅も新幹線も高速道路もない自治体が集い、それを嘆くのではなく、むしろ誇りにしようという発案でした。一時期は100以上の自治体が集まりましたが、平成の大合併が進むにつれて参加自治体が減ってゆき、ついに2003年には解散しました。
今回訪れたトスカーナ州のグレーベ・イン・キャンティ(Greve in Chianti)もまさにイタリアの「ないない都市」の一つです。国道も鉄道も新幹線も高速道路もありません。そうした「不便で小さな町」から始まったのがイタリアのチッタスロー(英語でスローシティ)運動でした。1999年開始時の初期加盟メンバーの一つがグレーベ・イン・キャンティです。日本の「ないないサミット」とチッタスロー運動に似ている点があるとすれば、加盟者が首長・自治体であり、小規模な市町村(具体的には人口5万以下)に限ることなどです。ただし解散した「ないないサミット」との大きな違いは、チッタスロー運動が現在も続いていることです。しかもイタリアのみならず海外にも広がり、現在では約30か国・300都市の加盟する国際ネットワークに成長しています。日本では2013年に宮城県気仙沼市、2017年に群馬県前橋市の赤城エリアが正式な認証を得ました。
グレーベ・イン・キャンティの景観
私がこの小さな町を訪れたかった理由の一つは、当時市長だったパオロ・サトゥルニーニさんがチッタスロー運動のキーパーソンだったからです。「人が生きていく上で根源的なもの、それは環境であり、人間サイズの、ほど良い大きさの町だ」という彼の発案がこの運動の基本理念になりました。ノンフィクション作家の島村菜津さんの『スローシティ』にそのことが詳しく書かれています。残念ながらサトゥルニーニ元市長は2020年に他界しましたが、現在は彼の息子ジューリオ・サトゥルニーニさんが副市長を務めています。チッタスロー運動の理念がどのように引き継がれているのかをインタビューしたいと考えました。
もう一つの理由は、チッタスロー運動と観光のつながりです。グレーベ・イン・キャンティでは、チッタスロー運動の業務を観光文化課の正規職員1名が兼務しています。こうした体制は、チッタスロー国際連盟本部のあるオルヴィエートにはありませんでした。この町では、チッタスロー運動と観光を明確に結び付けた政策を行っているのではないかと期待しました。
とくにサトゥルニーニ元市長が力説したのは、観光の「量」ではなく「質」でした。観光客は家族の一員であり、観光客自らが歓迎されていると実感できること、おもてなしと高い専門性に裏打ちされたサービスを提供することでした(Paolo Saturnini, Anima e Cuore: Manuale del sindaco slow, 2022, Cittaslow International)。こうした彼の考えは、チッタスローの公式パンフレットの中で次のように表現されています。
観光/スローシティツーリズム:場所のもつアイデンティティや雰囲気を壊してしまうような過度なツーリズムはもうおしまいにしよう。世界のチッタスローでは、旅人たちを“期間限定の市民”として迎え入れ、責任ある観光行動とコミュニティで様々な経験ができるようなツーリズムを目指しています。
また、サトゥルニーニ元市長はチッタスローを「città vivibile(チッタ・ビビービレ)」とも表現しています。イタリア語のcittàは「都市」「町」です。vivibileは「生きる」「生活する」「暮らす」を意味する動詞vivereで、それに「可能な」「能力のある」「…できる」の意味をもつ接尾辞-abileがくっついた言葉です。よってcittà vivibileは、「生活できる」「生存に適した」「住み心地のよい」「暮らしやすい」「生計が立てられる」などの含蓄ある言葉です。グレーヴェ・イン・キャンティの現実の町に「チッタ・ビビービレ」という理想がどのように実現しているのかを理解したいと思ったのです。
グレーベ・イン・キャンティはイタリア中部のトスカーナ州に位置します。州の人口は約360万人で、全20州あるイタリアのなかでは真ん中くらいの人口規模です。日本の市町村にあたる基礎自治体コムーネは、トスカーナ州に273つもあります。そのなかで日本の政令指定都市にあたり、「花の都」で世界的に有名なフィレンツェ(人口98万)が州都です。グレーベ・イン・キャンティはわずか1.3万人のコムーネです。地図で見ると、北のフィレンツェと南のシエナのあいだに挟まれるようにしてあります。フィレンツェもシエナも中心市街地が世界遺産で、屈指の観光都市です。フィレンツェとシエナという観光界の横綱と大関にはさまれながら、どのように勝負しているのでしょうか。2024年3月上旬にグレーベ・イン・キャンティを訪れました。
フィレンツェ人のいないフィレンツェ?
フィレンツェのまちなか
グレーベ・イン・キャンティへはフィレンツェから公共バスが出ています。片道約40km、所要1時間で、1~2時間に1本の割合です。私は郊外行きバスが発着するバス停に着きました。無人発券機でチケット購入に少し手間取っていると、「大丈夫?」と制服を着た男性が声をかけてきました。フィレンツェ市の公共交通会社の従業員で、中肉中背にひげとメガネという見た目のアレッシオさんという中年男性でした。先ほどから仕事の合間に乗客や運転手とおしゃべりを楽しんでいた人です。「観光の調子はどうですか」と尋ねると、「コロナなんかどこ吹く風だよ。フィレンツェには世界中から観光客が戻っているよ」と答えます。「それはよかったですね」と私がいうと、意外にも浮かない表情でアレッシオさんは答えました。
フィレンツェのまちなかは観光客であふれかえっているよ。B&Bやレストランやファストフード店やお土産店ばかりが立ち並んでいる。よそから来た観光客と私たちのような生活者のニーズは違うからね。生活に必要な床屋や生活用品店はもうみあたらないよ。ふつうの市民は郊外に住むしかない。そうなるとまちは生活感のない美術館になってしまう。フィレンツェはもうフィレンツェ人のものではないね…
フィレンツェに来て浮かれていた私は「フィレンツェはもうフィレンツェ人のものではない」というアレッシオさんの一言に意表を突かれました。「屋根のない美術館」と称されるフィレンツェの美しい街並みですが、生活者のアレッシオさんの目には「生活感のない美術館」に映るのです。「観光か生活か」のバランスが崩れて、すでにオーバーツーリズムが発生しているのかもしれません。
「ところで何をしにグレーヴェ・イン・キャンティまで行くんですか? 観光シーズンでもないのに」と不思議そうにいいます。「チッタスローの加盟都市だからです」と私が答えると、アレッシオさんは「何ですかそれは?」とさらに不思議そうな表情をしました。「スローフード運動を都市政策に広げた取り組みなんです」というと、「ああ、なるほど」と多少合点がいった表情をしました。「でもシエナとかオルチャ渓谷に行った方がおもしろいんじゃないの? なんでグレーベなの?」と再び尋ねられます。同じトスカーナ州でもチッタスロー運動を知らない人は少なくないようでした。
私たちのいたバス停の向かいには大型バスが何台も止まっていました。車体にショッピングモールの広告が大きく掲載されています。「フィレンツェ郊外には5つほどアウトレットモールがあるんです。ここから有料シャトルバスが出ています。高級ブランドの品々が手軽な値段で購入できて、観光客にも人気なんですよ」とアレッシオさん。私たちが話している間にも、アウトレットモール目当ての観光客が何人も質問しに来ました。かつてフィレンツェで定番のお土産といえば、職人手作りの革製品や金細工でした。でもいまは郊外の高級アウトレットモールなのかもしれません。
そうこうしているうちにバスが時刻通りに到着しました。都市郊外バスで、スーツケースも収納できる立派な大型バスです。アレッシオさんは私の荷物の搬入を手伝って下さり、親切に運転手へ私の行き先も告げてくれました。
3月上旬は観光のオフシーズンです。平日の午前、閑散期にフィレンツェの下りバスの利用者はあまりいないのでしょう。乗客は英語圏のリタイヤ夫婦2名と私のみです。途中で学生や生活者が乗ってきましたが、乗車率は1割から2割程度とガラガラでした。
フィレンツェとグレーベ・イン・キャンティを南北につなぐ県道は、「ワインの道」と呼ばれています。出発して30分ほどは集合住宅や戸建ての立ち並ぶ郊外社会の景観が続きます。家並みが途切れた頃に車窓は丘陵地帯に変わっていきます。大型バス一台がようやく通れるほどの県道です。オリーブの畑やぶどう畑の準備が始まったところでした。
名付けることと行うこと―インタビュー
午前10時半頃、時間通りにグレーベ・イン・キャンティに到着しました。降車したのは私一人だけです。バスターミナルは、県道沿いにバス停が設置されている簡素な造りでした。予約した宿もすぐ目の前にありました。市庁舎や教会が集まる中心広場までは徒歩数分の距離です。数時間もあれば中心市街地を一周できそうです。思った以上にこじんまりした街並みで、あっけにとられました。
昼過ぎにインタビューのアポイントを取ることができました。副市長ジューリオさんと役場職員のアレッサンドラさんです。お二人との約束の場所は市庁舎でした。グレーヴェ・イン・キャンティの中心部にはマテオッティ広場があり、そこに市庁舎もありました。観光案内所もすぐ横にあり、「チッタスロー25周年」を祝う大きなロゴデザインをみつけました。広報に力を入れていることがうかがえます。
グレーベ・イン・キャンティの観光案内所
副市長のジューリオさんは、温和な表情をした40歳代くらいの男性でした。アレッサンドラさんはジューリオさんの父・元市長パオロ・サトゥルニーニさんとも長年にわたり仕事をし、チッタスロー運動の誕生前から現在までを見てきた女性の役場職員でした。「チッタスローの哲学をこの都市でどう具体化しているのかを知りたくてきました」と話を切り出すと、二人は少し困ったような表情をしました。ジューリオさんはこう答えました。
チッタスローの活動を25年間行ってきましたが、簡単ではありませんね。市民でさえも、チッタスローの名前は聞いたことがあるけれども、これが何であるかを説明できる人はほとんどいないでしょうね…
予想外の答えに私が戸惑っていると、ジューリオさんはさらにこう説明します。
例えばグレーベ・イン・キャンティでは毎年5月にイベントを開きます。イタリアの30都市のチッタスローが集まって、特産品を販売するのです。すると市民は「マルシェがやっているぞ!」とたくさん来てくれます。でもそれがチッタスローとどうつながるかまで考える人はほとんどいません。私たちも政策としてそこまでできていない課題があります。なかなか簡単ではないのです。
長年にわたってチッタスロー業務の窓口を担いつつ、観光文化課で仕事をしてきたアレッサンドラさんは別の観点でのこの取り組みの難しさを語りました。
ここに住んでいる人にとって、自然環境や地域文化を尊重した生活はある意味で「当たり前のこと」なので、あえて説明する必要もありません。それをわざわざチッタスローと呼ばねばならないことが理解できないのですね。チッタスローというのは、新しく何かをつくるというより、すでにあるものから始まります。すでにあるよいものを残して活かすことに主眼があるからです。
「ここに住んでいる人にとっては当たり前」「あえてチッタスローとよぶ必要性を住んでいる人は感じない」というのは、実は日本のチッタスローである気仙沼市や前橋市でも聞いたことのある話でした。それが認知度向上の壁になっていることは日本もイタリアも共通でした。
もしかしたらグレーベ・イン・キャンティは、次のような2つのタイプの人間の板挟みのなかで25年の活動を続けてきたのかもしれません。まずスローライフを今も生きている人、とくに伝統的な生活様式を続けてきた年配の人びとです。地域の自然環境に即した暮らしを当たり前のように続けてきたので、あえてそれを名付けることをしないし、その必要もないと感じています。ところが、現代の大都市生活者は違います。アスファルトとコンクリートに囲まれた生活を日常とする私たちは、自然豊かな景色や伝統的な暮らしを写真や映像で見て安らぎや癒しを感じます。それを「スローライフ」などと呼びます。でも「それ」を生きていないので、どこか抽象的なままです。つまり、スローライフやスローシティは、一方で伝統な暮らしを日常とする人びとには具体的な「名前なき実践」ですが、他方で、都市で生活する現代人には抽象的な「実践なき名前」なのです。
世界規模で都市化が進む現代社会では、もし何もしなければ「名前なき実践」はやがてなくなる運命でしょう。そのためチッタスロー運動の挑戦は、前者の世代と後者の現代人を意味あるかたちで結び付け、将来に必要な伝統を再生していくことにあるといえます。
このまちでチッタスローの認知度が高くないことを聴いて、私は落胆を隠せませんでした。するとジューリオさんはこう言いました。
チッタスロー運動がまったく役立っていないというと、そうではありませんよ。例えば観光です。去年に観光客数は過去最高を記録しました。大型リゾートホテルやテーマパークを作ったわけでもありません。「すでにここにあるもの」を観光資源として、受け入れ態勢と魅力をつくったのです。この考え方はスローな哲学に通じます。「量」ではなく「質」を追求した観光なのです。
さらにジューリオさんは話を続けます。「最近、出版されたものです」といって本を持ってきて下さいました。この地域の四季折々の田園風景が収められた写真集でした。アレッサンドラさんが解説します。
グレーヴェ・イン・キャンティには、数多くの地区や集落があります。地区ごとに独自の祭りや習俗、伝統や文化があります。最も古い集落の一つでは、3月の祭りでフリテッリ・ディ・リーゾ(米を油で揚げて砂糖をまぶしたお菓子で、トスカーナ地方の郷土料理)を作ります。地区ごとに微妙に作り方が違います。こうしたこともチッタスローのいう地域個性の一つです。行政都市の個性だけでなく、さらに小さな地区の個性を守って生かす役割がチッタスローにはあるのです。
ここも気仙沼市と前橋市のチッタスローと似ている点があります。両市も地区ごとに育んできた習俗や祭り、行事や文化に多様性があります。それらを合併吸収してひとつに統一せず、多様なモザイクにまとまりをつける額縁として、チッタスローの理念が活きています。地域内部の多様性と個性を尊重ししながら、どのようにして分裂しないようにするのか。絶妙で微妙なバランスをどう取るのかの挑戦があるようです。それはイタリアでも日本でも共通の課題なのでしょう。
「スローロード」と「分散型の美術館(ムゼオディフーゾ)」
「ぜひ行ってみて下さい」とジューリオさんに勧められたのが、最近つくられた観光資源「Slow Roadスローロード」でした。これは住民の散歩道を観光客も楽しめるように整備したものでした。専用サイトには次のように説明があります。
Slow Roadは、テリトーリオ(都市と農村が意味あるかたちで結びついた地域の地理的・歴史的・文化的なまとまり)の価値を高め、自覚ある観光を促し、若者の育成に貢献し、職人芸を磨き、領域横断的な芸術表現への参加を促進し、恒例行事の一つを実現するためのルートである。私たちはみな同じテリトーリオの生態系に住んでいるという意識を育むことで、普段は交わりのない人びとを一つに結び付けていく。そうした挑戦を行うのがSlow Roadだ。
市庁舎のあるマテオッティ広場からワインの丘陵畑と小さな集落をめぐる約8 km・3時間の散策コースです。この事業は、アーティスト専用の住居を運営する民間団体が企画運営し、フィレンツェ大学のデザイン学部とグレーヴェ・イン・キャンティの自治体に加えて、トスカーナ州とイタリアの文部科学省がパートナーシップで関与していました。スポンサーにはフィレンツェの株式会社と信用組合の名前があるので、地域の民間企業も金銭的なサポートをしているようです。
閑散期に来た観光客の一人として、Slow Roadはありがたかったです。訪れたいと思っていた観光施設は、ワイン博物館も、聖フランチェスコ教会も、市立観光案内所も、100種類以上のワインの試飲が楽しめるエノテカも、ハイシーズンにむけて改装中や休館でした。「ハコモノ」の観光資源にはどうしても管理運営するスタッフを常駐させる必要がありますが、Slow Roadのような屋外観光資源はメンテナンス中や悪天候でなければ、年中無休で楽しめます。もともとは住民の散歩道なので、もちろん費用はかからず、好きなときに行けます。
春の温かい日差しに恵まれた翌朝、私はSlow Roadを散策しました。スタート地点は市庁舎のあるマテオッティ広場です。ここは地形的にもっとも低い位置にあり、グレーベ河が流れています。街の西側の丘陵地帯がSlow Roadです。西方面の丘に続く急勾配の坂道があり、建てられたばかりのSlow Roadの案内標識を見つけました。茶色の細長い立て標識は景観に調和しながらも、見つけやすいような工夫がデザインにされているようです。私は標識の案内を頼りに歩き始めました。
マテオッティ広場
案内標識
道は予想以上に勾配があるため、ややハードです。最初の到着地は聖フランチェスコ教会でしたが、オフシーズンで閉館でした。こちらは今度来たときの楽しみにします。さらに坂道を登ると、舗装道路に出ます。オリーブが植樹されている風景です。自動車の往来は5分に一度ほどです、完全な歩道ではなく、どちらかというと車道の脇を歩いている感じです。ここでは景観を楽しむより、安全に気を付けて歩かねばなりません。
オリーブの段々畑の坂道を進んでいくと、途中で小さな墓地がありました。入口にあった顕彰碑をみると、なんとアメリゴ・ベスプッチの名前が刻まれていました。大航海時代に4度もアメリカ大陸に渡り、「アメリカ」という国名の由来となった彼は、このグレーベ出身だったのです(島村菜津さんの『スローシティ』によると、このまちのワイン博物館にはアメリゴ・ベスプッチに関する展示があるそうです)。まちの中心広場にそびえたつ銅像ヴェラツァーノも大航海時代の探検家で、ヨーロッパ人で初めてニューヨークの地を見つけた航海者として知られています。この町から未知の広い世界へ旅立った人が何人もいたことに深い感慨を覚えます。
墓地を背にしてさらに坂を上がると、高台から町を一望する景色が広がります。景観は丘陵のオリーブ畑から森へと変化します。ほどなくして石造りの集落モンテフィオラッレ(Montefioralle)に辿り着きました。ようやくこの土地の全貌がわかってきた。実はこのモンテフィオラッレがこの一帯の古い集落のひとつで、10世紀頃まで遡ります。ここは小さな城塞を持つ中世都市でした。川沿いの低地に位置する現在のグレーベ・イン・キャンティは市場が開かれる場でした。中世のイタリアでは、マラリヤの蔓延や軍事防衛の理由で、高台に集落をつくりました。そして生活に必要な食糧や物資の交換は交通の便がよい道や河川の通る低地に市場が立つパターンが見られます。ここもグレーベ河の渓谷の底に位置する場所に市場がたち、中世以降は市場を核として都市がつくられたようです。
低地の市場から高台までは急峻な坂が1 kmも続きます。車なら一瞬で過ぎ去ってしまうところです。でもゆっくり歩きながらだと、水はどのように確保していたのだろうか、市場から集落までは馬で行き来したのだろうかなど、かつての世界を想像しながら歩くのも楽しいものです。
モンテフィオラッレの駐車場には現代アートのデザインによる休憩椅子が置かれていました。これらもSlow Roadのプロジェクトによって生まれた制作物で、分散型の美術館(ムゼオ・ディフーゾ Museo diffuso)と呼ばれる展示手法です。ハコものの美術館のような閉じた空間ではなく、屋外に作品を効果的に配置しながら、地域を回遊するようにして楽しむことができます。日本でも有名な大地の芸術祭のイタリア版といったところでしょうか。作品と展示場所の地域は、意味ある形で結びついていて、作品は主役でありながら、地域の引き立て役になり、その逆もしかりです。まるで絵画と額縁の関係のようになっています。
簡易的な露店があるため、ハイシーズンには多くの人びとがここを訪れるのでしょう。掲示板には、今週末に集落の祭りがあり、郷土料理のフリッテラ・ディ・リーゾが無料で振る舞われると書かれています。この郷土料理も集落や地区ごとに違うと、昨日のインタビューで観光文化課のアレッサンドラさんが言っていたことを思い出します。
モンテフィオラッレの集落は、よく整えられた路地に色とりどりの花の植木鉢が置かれており、トスカーナの小さな集落の美しいたたずまいを感じることができます。年配の男性数名にすれ違い、挨拶をします。人も住んでいるようです。私のような観光客も数組いて、街並みをたのしんでいました。
モンテフィオラッレを出てさらに歩くと、だんだん暑くなってきました。私はコートを脱いで散策を続けました。真夏と真冬に歩くのは厳しいでしょうが、それ以外の季節なら快適です。ワイン畑が目の前に広がります。逆方向から歩いてきた欧米系の散策人たちも「ハロー」ではなく「ボンジョルノ!」とイタリア語であいさつを交わします。
小さくてきれいなため池に到着しました。ここには水道がアート作品になっています。私はマイブームで実践している土の上でのはだし歩き、アーシングをしました。なおSlow Roadの散策道はほぼすべてアスファルトで舗装されています。通常は農道と車道として使われているからでしょう。人が歩くならば、本来は土の道や森の路が理想的です。Slow Roadはある意味で理想と現実との折り合いをつけながら構想されたものなのでしょう。よく探せば土と芝生のエリアがあり、おしゃれな水道もあります。もしはだし歩きに適した土の道が整備されたら、トスカーナの絶景をみながら歩くことのできるSlow Roadになると思います。
アート作品の水道
スタート地点からゴールに到着しました。坂を下りきったところにグレーベ河が流れていました。山があり、森があり、丘があり、畑があり、水があり、市場があり、そして都市があります。自然の恵みと人間の営みの循環を感じることができます。1000年前の人々が生きた生活圏とそれほど変わらない道のりを追体験できた気がします。1ユーロも使わずに、トスカーナの景観を楽しむことができました。ムゼオ・ディフーゾも面白いし、はだし歩きもできました。これをヒントに日本のチッタスローでも何かできるのではないかと思いました。
郷土の逸品を味わう
ちょうどお腹も空いてお昼の時間になりました。マテオッティ広場にある地元の有名な肉屋「ファルローニ」の経営するトラットリアに行こうと決めていました。手作りのプロシュート、サラミ、ヤギのチーズ、手の込んだクラッカー、玉ねぎを甘く煮詰めた一品、パンのついたプレートを注文しました。ワインの注文は、店内に並ぶワインのなかから支払い金額に応じて好きな種類と量を自分で選ぶ方式です。合計で約3000円です。パンはお替りができます。
ファルローニの店内
この店のすごさの一つは「見せ方」です。プロシュートが天井からぶら下がっている部屋、様々な種類の肉切り包丁、中世にタイムスリップしたかのような木製の頑丈な机など、お客は食事をしながら自由に店内を歩き回ることができます。試飲のワインも何種類もあるので、ワイン好きには天国でしょう。店員さんの応対も丁寧です。おいしく、たのしく、学びにもなり、ついつい買い物が進みます。商品の質とエンターテインメントにこだわった地元の名店であることが実感できます。
おわりに―薪のある風景とcitta vivible
Slow Roadでの散策と郷土料理をいただいた夜は時差ボケも忘れてぐっすり眠れました。早朝に目を覚まして窓を開けると、色々な種類の鳥のさえずりが聞こえます。丘陵地帯に立つ家々の煙突から一つまた一つと煙が上がります。暖炉に燃える薪の匂いがしてきました。中心市街地にある家も日常的に薪を使った生活を営んでいることがわかります。ここには自然をダイレクトに感じられる街の暮らしがありました。
早朝に煙突から煙があがる
「住民がチッタスローを意識しなくてもチッタスローなのよ」と、ジューリオさんとアレッサンドラさんが言っていたことを思い出しました。フィレンツェから日帰り移動が可能な距離ですが、もし日帰りだったらこうしたことにも気づかなかったでしょう。最初は3泊もして持て余さなないかと心配でしたが、泊まって大正解でした。
お世話になった宿で最後の朝食をとります。給仕や客室の掃除を担当している中年女性はグレーベ・イン・キャンティの出身でした。彼女は家から職場まで車で10分の距離に住んでいるといいます。「町は変わりましたか?」と聞くと、「いまから30年前は家に鍵をかけないでみんな出かけていたわ。さすがに今は鍵をかけるけど、みんな顔見知りよ」と答えます。「ここはまだ人の暮らしが残る町よ。まちなかに来れば、生活に必要なものは足りているし。ちゃんと生活できるチッタ・ビビービレcitta vivibileよ」と話しました。元市長パオロ・サトゥルニーニさんの「チッタ・ビビービレ」と同じフレーズが飛び出たのを聞いて、この町にはパオロさんが生涯をかけて大事にしたチッタスローの魂が現在も生きているようです。
彼女は私がSlow Roadを歩いてモンテフィオラッレに行ったことを聞いて喜びました。「ここにはアメリカ人とヨーロッパ人の観光客が圧倒的に多いです。中国人や日本人はほとんど見かけません。団体旅行客は大型バスで来て、慌ただしくまちを動き回り、ご飯を食べて、買い物をして、去っていきます。もう少しゆっくりしていけばいいのにと思いますね。なのでモンテフィオラッレに行って正解よ!」と。住んでいる人たちが心のなかで大事にしているものを分かち合うような観光をスローツーリズムと呼ぶのかもしれません。
グレーヴェ・イン・キャンティを出発する日になりました。車窓に広がるワイン畑の丘陵を名残惜しく眺めながら、今回の旅ではフィレンツェよりも「国道も鉄道も新幹線も高速道路もない」グレーベ・イン・キャンティの方が印象に残るような気がしました。インタビューに応じて下さったジューリオさんとアレッサンドラさんにお礼のメッセージを送りました。
昨日Slow Roadを散策しました。とても楽しかったです。そこで気づいたことがあります。スローツーリズムということは、山野河海といった外なる自然環境を尊重するだけでなく、私たち自身の体と魂に通じる内なる自然も大事するということです。というのも、私たちは加速するグローバル社会に生活しているだけでなく、惑星地球の生態系の一部を借りて、生きているからです。グレーヴェ・イン・キャンティは私にそのことを教えてくれました。また来たいと思います!
ワイン畑の準備
鈴木鉄忠・東洋大学教授・社会学者
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