イタリアには「Km 0運動」というおもしろい取り組みがあります。スローフード運動から生まれた合言葉であり、生産地と消費地の距離はできるだけ近いほうがよい、つまりキロメートルゼロ(Km 0)が理想だという考え方です。日本でも「地産地消」「マイクロツーリズム」は聞きますが、物理的距離を1km未満にするのが何ともユニークな発想だと感心しました。ぜひ本場の「Km 0」を見てみたい! という願いが叶い、2023年9月にイタリアを訪れました。
ところがいきなり面食らいました。長旅の末にローマ・テルミニ駅に到着し、ついに念願のローマに到着。しかし改札口を出て最初に目にしたものは、ローマの夜に煌々と光るマクドナルドのロゴでした。列車でローマ駅に到着した観光客は、みなが同じ光景を目にするはずです。なおフィレンツェでもまったく同じ光景を目にしました。サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の改札口を左側に曲がると、マクドナルドが2つもあります!
駅前にファーストフード店という光景は日本では当たり前でしょう。しかしローマのマクドナルドは歴史的に特別な意味をもちます。
テルミニ駅のマクドナルド
1980年代半ばまでイタリアにはマクドナルドが1店舗もありませんでした。1986年、マクドナルドはローマに初出店を決めます。場所はローマ中心部のスペイン広場です。『ローマの休日』でオードリーヘップバーンがジェラートを食べたあの付近です。「街の歴史的な景観をダメにする」「イタリアの伝統の味を守ろう」という抗議の声があがり、ローマのみならず、他の都市でも反対運動が起こりました。そうした流れのなかでスローフード運動は誕生しました。
この運動の提唱者カルロ・ペトリーニは、「スローフードがマクドナルドに対抗するのは、ハンバーガーとポテトを嫌い、食卓に長く留まるよう命じたいからではない」と言います。本当の目的は、「材料の選択や味の継承に注意を払い、食べ物がいかに用意されるかに心を砕き、自分たちが食べているものが五感を通して伝えるメッセージに耳を傾け、調理法や一緒に食べる仲間に心を向けること」なのだと力説します(カルロ・ペトリーニ、中村浩子訳『スローフード・バイブル』31-32頁)。この運動は、単なるファーストフードへの反対ではなく、ファーストフードな考え方と世界規模の食の均質化に対して根本的な異議申し立てを行い、建設的な代替案の実現を目指したものでした。その経緯は島村菜津さんの名著『スローフードな人生!』に詳しく書かれています。
オルビエート市の店舗でみたスローフードのロゴ
あれから30年余り経った現在、スローフード運動の地域組織はイタリア全土に293誕生しました。他方でマクドナルドはイタリアに682店舗、ローマには約60店舗あります。スローフードもファーストフードも併存する現実をどう考えたらよいのか。ローマでマクドナルド・ショックを受けた後、私はイタリアのなかでもスローフード運動が活発な都市のひとつであるイタリア中部のボローニャを訪れました。
ボローニャは、ヨーロッパ最古の大学を有する文芸都市として世界的に知られます。中心市街地は現在でも中世時代の人間サイズの街並みをとどめています。観光名所を徒歩で巡ることができるのに加えて、新鮮な食材を扱う大小さまざまな市場が中心街から歩いていける距離にあるのが魅力です。
ボローニャ中心市街地
イタリアではコロナ以前と比べて物価が高騰していました。ボローニャも例外ではなく、ホテルの宿泊料がコロナ以前の2倍になっているのも珍しくありません。私はボローニャに留学中の日本の友人に最新情報をもらい、宿泊費を節約するために、民泊のアパートを借りることにしました。今回初めてイタリアで民泊を友人3人と借りたのですが、ホテルと異なり台所があるという利点に気がつきました。食材を調達すれば、自分たちで料理ができます。そこでボローニャの食市場で地元の食材を買い求めて昼食を作ることにしました。
土曜日の朝、2つの市場を訪れました。一つは観光ガイドブックに掲載されるほど有名なエルベ市場です。屋内マーケットの造りになっており、新鮮な野菜、果物、魚屋、肉屋、パスタ屋、パン屋など、見るだけでも楽しい気持ちになります。民泊のアパートから歩いてすぐの距離です。
エルベ市場
私のお目当てはもう1つの食市場でした。地元のスローフード協会が「キロメートルゼロ」を掲げて開催するファーマーズ・マーケットです。エルベ市場から旧市街の城壁のあった方向へ歩くと15分ほどで到着しました。ここには映画フィルムの収集・保存・活用を目的としたボローニャ市立の公共施設「チネテカ」があり、その野外スペースの一画を利用して青空市場が開催されていました。公式サイトには次のように説明されています。
メルカート・リトロヴァート(Mercato Ritrovato)は、2008年からボローニャ市のチネテカで開催されているファーマーズ・マーケットです。農家の生産者団体によって運営されています。地元で採れた旬の農産物だけを、生産者自らが紹介し、ゼロキロの買い物とストリートフードを提供します。地域の50以上の生産者が、旬のゼロキロの商品を適正価格で対面販売します。農家や職人は顔の見えるかたちで関わっており、地域の最高品質を保証します。さらに、子どもから大人まで楽しめるワークショップ、ストリートミュージック、ダンス、イベントも開催されます。この取り組みは、ボローニャのスローフード協会が企画し、ボローニャ・チネテカ財団の協力を得ながら、ボローニャ市とエミール銀行の支援を受けて実施されています。
メルカート・リトロヴァート
「リトロヴァート」は「発見、発明、発掘、復元」なので、「メルカート・リトロヴァート」は「再発見された食市場」といった意味です。友人によると、ボローニャは無声映画や知られざる過去の傑作を野外広場で再上映する「ボローニャ復元映画祭(Il Cinema Ritrovato)」を行っているので、それが名前の由来なのではと言います。すると「メルカート・リトロヴァート」は、知られざる地域の食材やスーパーに出回らない農産物を再発見できるファーマーズ・マーケットという意味です。主催者の意図がよく伝わるネーミングです。
メルカート・リトロヴァートは毎週土曜日の9時から14時まで、夏は月曜日の夕方に開催されています。私たちが訪れた土曜日の午前には、新鮮な野菜や果物、バルサミコ酢、乳製品、はちみつなどを販売するテントが10つほど立っていました。体験コーナーでは料理教室も開催されていました。
私の関心は、ここで販売されているものが本当に1キロメートル未満で生産されたものかでした。乳製品店で買い物をするときに、何気なく店主に尋ねました。すると「ボローニャの地域で生産されたものだよ。それだと1kmを超えるじゃないかって? まあいいじゃないか。とにかくボローニャの地域のなかなんだからさ!」と正直に答えてくれました。
メルカート・リトロヴァート
隣で有機農産物を販売するテントの農場は、サン・ドンイーノ地区と書いてありました。地図で調べると、ここから約4kmの距離があり、中心市街地の最短の城壁門から測っても2kmはありました。どうやら1㎞未満という距離は厳密に守られてはいないようでした。ちょっとがっかりする反面、すべてをゼロキロにするのは難しいのかもしれません。
ただし「Km 0」の代わりに語られたキーワードがありました。「地域(テリトーリオ)」です。イタリアで「テリトーリオ」が語られるとき、日本語の「地域」以上の含みと深みがあります。イタリア都市研究者の陣内秀信さんによれば、テリトーリオとは「都市と周辺の田園や農村が密接に繋がり、支え合って共通の経済・文化のアイデンティティを持ち、個性を発揮してきたそのまとまり」のことです(木村純子・陣内秀信編著『イタリアのテリトーリオ戦略』4頁)。「Km 0」のコンセプトには、テリトーリオの中で生産された食材へのこだわりが含まれているのです。
メルカート・リトロヴァート
「再発見市場」は何にこだわっているのでしょうか。主催団体の説明を再読すると、以下のポイントが挙げられます。
1) Km 0のコンセプトを掲げていること
2) マーケットの運営は、農家の生産者団体であること
3) 地元産の旬の食材を扱うこと
4) 適正価格であること。つまり生産者が生業を継続できるような価格設定であること。
5) 生産者の顔が見える対面販売であること
6) 主催者は地元のNPO法人スローフード協会、後援者は財団、行政、銀行であること
今回の訪問だけに限れば、1)は厳密な意味では守られておらず、ボローニャの「地域(テリトーリオ)」がその実質的な範囲になっていました。地域の範囲がどこまでなのかはさらに調べる必要がありそうです。他方で、買い物をしながら店舗の方と会話をすると、生産者でなければ知りえない詳しい情報をきちんと教えてくれました。そのため2)と3)と5)は本当のようです。有機農産物はスーパーの野菜価格よりも高いことが常ですが、法外に高いということはなかったので、4)についても妥当な価格設定だと思います。6)については今後の調査で調べることにしました。
上記がスローフードの最前線だとしたら、ファーストフードの最前線はどうでしょうか。イタリアのマクドナルド公式サイトをみると、なんと「100%イタリア国産の材料使用」と謳われているではありませんか。ハンバーガーの牛肉はすべてイタリア北部の1万5千の農場から仕入れを行い、チキンナゲットの鶏肉は遺伝子組み換え飼料不使用かつ平飼いの農場から調達したものを使用していると明記されています。ベーコン、牛乳、卵、アンズも「100%イタリア国産供給」とあります。さらに読み進めると、2008年にイタリア国産の材料の使用比率を可能な限り高める目標を掲げ、当時30%だった国内調達比率が現在は85%まで達成したとのことです。今ではフランスやドイツのマクドナルドにイタリアで生産したチーズやベーコンを輸出するまでになっているというから驚きです。日本マクドナルドの公式サイトには、食材の国内調達や使用にここまでこだわっているという記述はみあたりません。イタリア人にマクドナルドを受け容れてもらうためには、「100%イタリア国産供給」をここまで徹底して行わなければならなかったのかもしれません。
スローフードはできる限り「地産(テリトーリオ)」を目指す一方で、マクドナルドはできる限り「国産」を目指している構図が浮かび上がってきます。どちらも進化を遂げていました。
さて、スローフードの食市場で旬の食材を買い求めた私たちは、早速アパートの台所で調理しました。前菜にマテ貝のワイン蒸し、プロシュート、イチジク、プリモピアットにトルテリーニ、メインにビーフステーキと茹でたほうれん草、副菜にトマトとルッコラとセロリのサラダ、デザートにスイカが食卓に並びました。いずれもこの日の午前に、ボローニャの街中を歩いて生産者から直接買い求めた食材の数々です。素材の良さを活かしたシンプルな調理ばかりだったため、作る手間も時間もそれほどかかりません。地元の名物レストランやピッツェリアで食べるのもよいですが、費用がかかりすぎたり、野菜が不足したりしがちです。その点では、地元産の旬の食材を仲間と賑やかに食べる喜びを味わうことができました。スローフード運動が重要視するコンヴィヴィウム(共食)を私たちは自然と実践していたのです。
食卓
ボローニャでの滞在は2泊3日と僅かでしたが、ローマのマクドナルド・ショックを払しょくしてくれるようなスローフード体験がありました。キロメートルゼロ運動が必ずしも厳密に実施されていなかったことは少し残念でしたが、理念と現実の折り合いのなかでスローフード運動を進めている実態を垣間見た気がします。そして新鮮な地元産の旬の農産物を買い、農家の方と会話し、家で手作りしてみんなでわいわい食べるといった、ボローニャの住民になったような体験ができたことは最大の発見でした。ゼロキロの徒歩圏内で、ホテル滞在型とは別の旅の楽しみ方が可能だということです。
人口約40万人のボローニャで出来るのだから、日本の地方都市でも地元産の食を活かしたゼロキロ・ツーリズムの可能性があるかもしれません。
鈴木鉄忠・東洋大学准教授・社会学者
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