旅/観光とフィールドワーク
筆者は、「文化人類学」という学問を研究しています。フィールドワークをすることで、これまで自分(調査者自身)が知らなかった世界について学ぶとともに、「その世界に生きる人々の視点から」物事を捉え直そうとする……そのような知的態度を大切にしています。自分がそれまで抱いていた「当たり前」を自ら問い直し、より寛容で想像力に満ちた思考を手に入れる努力を続ける……そのような学問的営みです。自己を相対化するなかで他者を理解し、より寛容な社会に向けた思考を広げていくことを、(少なくともわたしとしては)目指しています。
わたしは2022年からこのサスタビの活動のお手伝いをさせていただいてきました。そしてサスタビでサステナブルな旅や観光のあり方を模索するなかで、文化人類学者としてわたしがフィールドワークを通じて獲得しようとしてきた上述の視点や想像力が、旅や観光を通じても養うことが可能なのではないかと考えるようになってきました。
旅や観光は、自身が生きてきた地域や社会の外へと出かけ、旅先の地域で新鮮な出会いや驚きに触れる営みといえます。その観点でいえば、フィールドワークと近しい運動をしていることになります。旅や観光と、学術的なフィールドワークとの間にはもちろんいくつかの隔たりがあるでしょう。しかしながら、隣接している点も多く存在するように思います。
旅/観光しなければ出会わなかった人や場所へ
新しく何かを知る、未知の何かに出会うということは、人生において素敵な経験です。旅や観光はそのような素敵のチャンスに溢れています。日常生活や職場との往復移動、会社の営業等では行くことのないであろう街や場所、国に出かけるきっかけは、旅や観光を除くとそう多くはありません。留学、家族の赴任地への同行、遠くに住む親族や知人に会いに行く……といったところでしょうか。「知らなかった場所に行く」という機会や決意(そう思い至るきっかけ)の多くは、じつは旅/観光という回路を通じてである可能性が少なくありません。
旅や観光がなければ行かなかった場所、出会わなかった人、知り得なかった驚き。それらは代えがたいものであり、生を豊かにしてくれるものです。
ただし、知らなかった場所、未訪の地に行ってみることは、両義的な帰結をももたらします。なぜなら人間によるそのような移動は、喜ばしい出会いや発見だけでなく、歴史的には争いや支配、嫌悪の感情などをも招いてきたからです。旅や観光もとうぜん手放しに称揚できるものではなく、よりよい旅や観光の仕方を学んでいかなければならないものです。それは多くの人にとって楽しい営みですが、ときに人を傷つけたり、迷惑をかけたり、他者に対するステレオタイプなイメージ(偏見)を増長させてしまったりするきっかけになってしまうからです。
寛容な社会をめぐる2つのイメージ
寛容な社会とはどのようなものでしょうか。今日では、そのイメージが2つに分かれているように思います。
ひとつは、人びとが交流し、相互に理解し合い、支え合うようなイメージです。ここにおいて「多様性」という言葉は、互いに手を取り合うための出発点となる合言葉になっています。
しかしながら近年、それとは異なるかたちの社会がイメージされつつあります。それは一言でいえば、相互不干渉型の社会です。「あなたのことは放っておいてあげるから、私のことも放っておいて」といわんばかりの、線引きの社会。「人それぞれ」が称揚され、「多様性」は何らかの議論に終止符を打つための言葉になっているような社会です。
このふたつめの社会においては、旅や観光は余計な物となってしまうでしょう。新しい出会いや交流は煩わしいものであり、既存の秩序を乱すやっかいなものとして映ります。他所から勝手にやってくる迷惑な存在としての旅人や観光者が浮かび上がってきます。
はたして、それは本当に寛容で相互理解の進んだ社会なのでしょうか。「私は私、あなたはあなた」の「人それぞれ」は一見すると他者を尊重しているように思えますが、その論理を支えているのは先述した「放っておいて/放っておこう」の意識です。他者と関わりたくないという線引きと隔たりの意識がその本質です。そのような態度は、現状の社会を維持することができるかもしれませんが、差異をこえてディスカッションしなければならないような共通の課題に対処することができません。そして、そのような「共通の地球的課題」の最たるもののひとつが、地球社会のサステナビリティをめぐる議論にほかならないでしょう。自然環境や社会のサステナビリティを考えていくためには、「人それぞれ」では限界があるのです。
また、「人それぞれ」型の社会では、他者に対して一度想起された「イメージ」はこびりついて固定化されてしまいます。「●●人は△△だ」「あの地域は××だ」といった固定観念が強化・再生産されてしまうことになります。
出会うことが社会を寛容にする
2つめの寛容な社会のイメージでは、サステナブルな社会の可能性も、旅や観光の可能性も縮減してしまうでしょう。他者理解や、平和で寛容な社会、サステナブルな社会を実現させるために、人びとは出会わなければなりません。他者との間に境界線を引くのではなく、他者と向き合い、境界線を揺さぶっていかなければなりません。旅や観光は、そのために行われなければならないのです。
その意味で、旅や観光には「痛み」が伴うかもしれません。旅や観光さえしなければ未知のものや得体の知れないものにも出会わなかったであろうに、そのような危険性に自ら身を投じることになるからです。旅先で出会った人やお店の人と上手くコミュニケーションできず、嫌な思いをしてしまうこともあるかもしれません。異なる文化のなかで生活することに苦痛を感じ「今すぐ帰りたい」と思ってしまうかもしれません。しかしそうした「痛み」の経験もまた新たな出会いのひとつであり、「これまでのわたし」を作りかえてくれるきっかけでもあるのです。
買い物かごをめぐって
ここで、そのような経験の一例について、わたしの実体験からご紹介しましょう。わたしは研究の調査のために、フィリピンのマニラに半年ほど滞在していたことがあります。
海外で一人で長期間の調査をするということで身構え、現地に着いてからもどこか落ち着かないわたしは、よくマニラのスーパーマーケットに足を運んでいました。「海外に来た!」と思わせるような色鮮やかな商品陳列棚のなかを歩くことは新鮮で楽しさがありました。「行くたびに、見たことないものや食べたことないものを1つ買う」という自分ルールを定め、フィリピンの食事を楽しみました。

マニラのスーパーマーケット入口。警備員が立っています。

サーディンのトマト煮など、種類も在庫も豊富な缶詰たち。自炊で大変お世話になりました

お菓子売り場も充実。楽しい気持ちになります
さて、調査よりもこうしてスーパーマーケットを日々謳歌していたわたしが、ひとつ驚いたことがあります。下の写真を見てください。
レジ待ちの風景です。カゴを地面に置き、前に進むときには足でカゴを押す。そのような風景を多く目にします。
最初、わたしは困惑しました。野菜や肉も入った食品を地面に置くことに衛生的な問題を感じたからです。「だらしない」とすら最初は思ったかもしれません。足でカゴを蹴るように前に押し出すことも、見ていて抵抗がありました。
その後、まずわたしは、「そういう習慣(文化)なのかな」といった納得を試みました(もちろん、カゴを地面に置かない人もいました)。しかしその後、わたしは次のような自問をしました。
「もし彼らが日本に観光にやってきたとき、日本のスーパーのレジ待ちで同じことをしていたらどう思うだろうか?」
「日本で同じことをしたら、すぐに問題になるだろうな…」と思いましたし、あまり気持ちの良い思いはしないだろうな、と正直感じました。みなさんはどう思いましたか?
しかしながらここで思い出したいのは、冒頭の「線引き思考」の話です。「フィリピンはそういう文化だから」「日本ではするな」といったある種の線引き的な思考では、目の前でカゴを地面に置いている彼ら(フィリピンの人びと)のことを理解したと言えるでしょうか。当時、そのように問いかけられた気がしてわたしは、フィールドワーカーとして、人びとと同じように自分もカゴを地面において足で蹴って前に進んでみました。
快適でした。
今までなんで自分はわざわざ重たいかごを手に持っていたのだろう?とすら感じました。考えてみると、そもそも日本ではなぜカゴを地面に置かないのでしょうか。やっぱりだらしないから?でもその衛生観念はどこから来たのだろう。レジの店員さんはどうして常に立っているの(フィリピンでは座ってレジをする人も多い)?店員さんはなぜ暇なときにスマホをいじってはいけない?なぜ常に笑顔で愛想よくいなければならない?日本ではなぜ水を飲むためにわざわざ客に許しを請わなければならないのか……?
フィリピンの人びとと同じようにカゴを地面に置いてみると、このように日本のスーパーマーケットやレジの風景にも多くの疑問や謎が浮かんできたのです。かれらがカゴを地面に置く理由も最初はよくわからなかったけど、考えてみたら自分たちも謎多きことをしているなと思えてきました(文化人類学のフィールドワークでは、このように、対象社会の人びとと「同じことをする」ということを非常に重要視しています)。
この経験は、私にとっては、フィリピンへの旅(調査ですが、あるいはスーパーマーケットへの旅)をつうじて自分を問い直すひとつのきっかけとなりました。些末な例だったかもしれませんが、旅や観光で得られる新しい出会いというものは、しばしば当惑や苦痛として現れるとともに、その回路をつうじて新たな発見や自己相対化に導いてくれる可能性があるといえます。得体の知れない他者と出会い、共に暮らしていかなければならないとき、必要なのは「線引き」ではなく、自己の問い直しを通じた歩み寄りなのかもしれません。
出会うことは、その意味で自己を寛容にする重要な出発点です。
旅/観光という回路
他者と出会うための回路はいくつかありますが、やはり旅や観光はそのなかでも重要な回路です。楽しさやワクワク感といった肯定的な感情とともに他者と出会うチャンスがあるからです。
しかし残念なことに、旅や観光はいま、肯定的な出会いよりもどちらかといえばマイナスな出会いを生じさせています。オーバーツーリズムや異文化不理解によるさまざまな問題や環境負荷が露呈しています。旅/観光という出会いの回路を肯定的に捉え直すために、ひとりひとりのサステナブルな旅の意識がいっそう重要になってきています。そして、この世界や社会をより豊かに寛容に生き抜く手立て、あるいは、この世界や社会をより豊かに寛容にしていく手立てとして、旅や観光(の可能性)を粘り強く考えていくことが求められているでしょう。
サステナブルな旅やサステナブルな観光とは、自然環境や経済的な貢献だけでなく、旅や観光をつうじて社会の肯定的な出会いと相互理解を進めていくことも意味しています。そのために必要な意識や心構え、具体的な旅のあり方などを今後もサスタビでは発信していきたいと思います。

サスタビ外部アドバイザー担当。北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 専任講師。立教大学大学院観光学研究科 博士課程後期課程修了。博士(観光学)。専門は文化人類学、観光研究、モビリティ研究。北海道札幌市出身。
こんにちは。
フィリピンで、現地の人と同じようにカゴを足で蹴って進んでみたら「快適」だったのですね!
どのようなことでも「当たり前」を疑ってみることは大切なのかもしれませんね。
「それって誰の当たり前?」と。
人間は、線を引くことにより物事を整理しつつ社会生活を営んできたのかもしれませんが、相互理解という点においては問題ともなり得る、ということでしょうか。
人は一人では生きられず、また、人との出会いによって人生が大きく変わることもありますから。
旅に出る、あるいは新しい環境に思い切って飛び込んでみることは人生を豊かにするのだと思いました。