「ローカル」という言葉を聞いて、あなたはどんなことをイメージしますか?
「地域のもの」「地域らしさ」「(都市と対比される)田舎」、「(グローバルと対比される)局所性」……たくさんあると思いますが、「ローカルであること」はこんにち、かつてなく重要視されているように思います。これはサステナブル・ツーリズムにおいても同様といえましょう。
たとえば地産地消。地場産品を、コストやエネルギーをより要する遠方への輸送にあてるのではなく、地域内部で消費できるよう仕組みを構築することは、持続可能な社会の実現において重要なことだと考えられていますね。観光客という外部の者が、そうした循環の輪にどう参加できるかという点も問われています。
あるいは、チェーン店や外部資本との対比。「飲食や買い物の際にチェーン店を利用するのではなく、ローカルなお店を利用しましょう」という掛け声が盛んになされています。外部資本の場合、売り上げの多くは本社(すなわち地域外部)に吸い上げられてしまいますが、個人経営やローカルに軸足を置いた店舗の場合、利益がそのまま地域に(正確に言えば、地域における特定の経営者/労働者に)落ちることとなります。
ほかにもサステナブル・ツーリズムでは、地域の文化や歴史を学ぶことの大切さや、地域の人びとと関係性をつむぎ、交流することの意義が強調されます。そうした場合にも、ローカルという言葉は登場することが多いように思います。
この連続シリーズ「#旅とローカルを考える」は、ローカルという言葉のそうした重要性を意識しつつも、その単純ではない側面――ローカルのややこしさ、難しさ――についても検討してみることで、ローカルという言葉についての理解や批判的思考のヒントを模索しようとするものです。
ローカル。わたしたちがその言葉を発するとき、そこにはどんな含意があるのでしょうか。そのとき想像されているのは、どんな景色で、どんな価値で、どんな欲望なのでしょうか。ローカルとは、どこなのでしょうか。
観光/旅という儀式
わたしたちは、何のために観光/旅をしているのでしょうか? 観光は、なぜ生まれたのでしょうか?
急に話題が変わったように思われるかもしれませんが、「ローカル」という言葉を考えるためには、じつはここから話を始めなければなりません。
さて、その問いに対し、観光とは近代社会の成熟期においてわたしたちが「生きる意味」を模索するために行う儀礼である、と答えた者がいます。観光研究において最も重要な書籍のひとつ『ザ・ツーリスト:高度近代社会の構造分析』(学文社、2012年。※原著はThe Tourist: A New Theory of the Leisure Class, University of California Press, 1999)を著した、ディーン・マキァーネルという研究者です。
生きる意味やアイデンティティ、帰属意識が、特定の地縁コミュニティや労働コミュニティによって与えられていた時代から移りかわり、わたしたちは生きる意味やアイデンティティをひとりひとり自ら考え、模索していかなければならなくなりました。そうして「個人」という単位が登場してくる頃、社会もまたそうした個人にあわせて細分化され、複雑なものとなってきたとされます。
マキァーネルは、そうして細かく分かれていく社会の動向を「分化」と表現しています。では分化の時代において、生きる意味をわたしたちはどうやって探し出すのでしょうか。…それは「他者の社会」から見出される、とマキァーネルは言います。
自らが所属していたコミュニティ/社会を脱し、他者の社会に足を踏み入れ、その社会で何らかの「真理」を発見すること。何かを学んだり、気づきを得たりすること。
これって、まさに観光/旅と重なると思いませんか。観光は、近代以降の社会構造を分析するうえでひじょうに重要なカギを握る現象である…そうしてマキァーネルは、観光という現象に着目したのです。
「表舞台」と「裏舞台」:旅のしくみ
マキァーネルは観光研究における重要な概念をいくつも提示しましたが、なかでも盛んに議論されてきたのが、彼が演劇論を参考にしながら提示した「表舞台(front stage)」と「裏舞台(back stage)」という概念です。
表舞台とは、観光客と観光客向けのサービスを行う人びととが対面する空間です。裏舞台は、観光客が入り込むことができない、地域の人びとの実生活の空間を示しています。そして、先述した生きる意味やアイデンティティ、真理とよびうるもの(厳密には真正性という言葉が使用されています)は後者に、すなわち他者の実生活が営まれている裏舞台に隠されていると予感されるからこそ、観光客/旅人はそこを目指すというわけです。
わたしたちが旅/観光をするときに、ホンモノを知りたい、もっと深く知りたいという欲求に駆られたり、旅をつうじて何かを学び、新しい自分に出会いたいと思ったりするのは、裏舞台に対する期待ゆえなのです。また言い換えればそれは、観光客向けに用意され、演じられている空間としての表舞台では満足できず、さらに奥へ深くへと足を踏み入れてみたい、裏舞台を覗き見してみたいという欲望にほかなりません。
マキァーネルも述べていますが、こんにちでは、観光客のそうした欲望を満たすために「裏舞台のように演出された表舞台」が登場してもいます。工場見学ツアーや、夜間の動物園ツアーなどは、観光客にとってその場所が「普段は入ることができない」「地元の人や従業員しか利用できない」所であり、その事実に人びとが価値を感じるからこそ人気を博しています。
いうまでもなく、そこで観光客が覗き見できる裏舞台は「覗き見されても良いように用意された裏舞台」であり、すなわち観光客向けに演出されている表舞台の一部にほかなりません
もっと考えたい人へ向けたコラム:おそらくわたしたちはみな、「裏舞台のように演出された表舞台」が本当の意味で裏舞台ではないことにはじめから気づいていて、それでもなおその裏舞台=表舞台で楽しんでいるということは興味深いポイントです。観光客もまた、その舞台のうえでともに演技を行う役者のひとりでありうる、と言えるかもしれません。
さて、裏舞台もまた表舞台に過ぎないなると、次はどのような欲望が喚起されるでしょうか。それは、「裏舞台のように演出された表舞台」のさらに奥に、本当の裏舞台があるという予感にもとづいて、そこに到達したいと考える欲望でしょう。一切の演出がなされていない、本当の意味での地域住民の実生活の姿がそこにあり、観光的なそれとは異なる「深い関係性」を旅人は築くことができる、という考えです。
この点に、「ローカル」という言葉が非常に親和的であるとわたしは考えています。
サステナブル・ツーリズムにおける「ローカルの所在」
先に述べたように、サステナブル・ツーリズムにおいて「ローカル」という言葉は重要な意味を帯びています。地産地消に貢献すること、地域住民と深く関わること、外資本ではなく地場産業を応援し利潤を地域内で循環させること、地域の歴史や文化を学ぼうとすること。
持続可能な社会の実現において、以上の取り組みが重要であることに異論の余地はないかと思われます。その一方で、サステナブル・ツーリズムを他の観光と差異化させようとするときに陥りやすい落とし穴が存在しうることは、考えておく必要があるでしょう。
たとえば、サステナブルな取り組みのためにローカルを志向することと、表舞台では飽き足らずに裏舞台へと侵入しようとすることは、じつは隣り合わせでもあるのです。正確に言えば、その差異は決定的ですが、一歩間違えれば容易に良くない方に転化してしまいやすい、ということです。
表舞台だけで満足するような旅を仮に「表層的な旅」と表現するならば、サステナブル・ツーリズムはきっと「深い旅」なのでしょう。しかし思い出せば、裏舞台とは、観光客が来ることが想定されていない空間です。「深い旅」をしたいという気持ちのあまり距離感を間違え、地域の人びとにとって「入ってきてほしくない領域」に土足で乗り込んでしまうことになれば、それは「深く」はあれどサステナブルではないというべきでしょう。
こういってよければ、観光客向けに演出された表舞台(+裏舞台のように演出された表舞台)だけで済ませてしまうほうが環境負荷が低減される、あるいは少なくともリスクが予測/管理可能になるということもありえます。
関連して、「他人とは違う自分だけの旅をしたい」という欲求もまた、「みんなが経験している表舞台の観光ではなく、誰も知らない自分だけの場所に行きたい」という「裏舞台への希求」と隣り合わせです。あなたにとって「ローカル」という場所は、「裏舞台」に位置しているのではありませんか?
旅は探究的な活動であると同時に、その特徴によって時として摩擦を生みかねない両義的な営みなのです。
ローカルのさらに内側への旅
ローカルに深く関わりたいという欲望が、地域の人びとにとってはときとして「裏舞台への侵入」のように受け取られてしまいかねないこと。ローカル志向と身勝手さは、意外と近い距離に存在しうること。今回の記事ではそのようなややこしさを考えてみました。
ローカルに深く入り込むことと、サステナブルであること。この2つの違いや共通点をより丁寧に、きめ細やかに検討し続ける必要があるでしょう。これがシリーズ「#旅とローカルを考える」のねらいです。
次回【後編】は、今回の考察をより深めて、ローカルという領域のさらに内側に存在する複雑性や多様性について検討してみたいと思います。
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