【静岡県】人生の風を待つ場所、伊豆稲取

伊豆稲取に流れる「静かな熱意」

道端に落ちている石ころを見て、「この石は、どこから来たのだろう」と考えたことはあるでしょうか。

私はこれまでの人生で、そんなことを考えた瞬間はありませんでした。

初めて「この石はどこから?」と考えたのは、伊豆稲取でジオガイドの藤田さんに連れられ、細野高原の探索をしたときのこと。日頃、高いビルに囲まれた自宅から一歩も出ず、背中を丸めてパソコンに向かっている私は、炎天下で行われた山歩きになかなか疲労困憊していました。

とても自分と同じように山歩きをしたとは思えないほどひょうひょうと前を進む藤田さんが、ふいに立ち止まって「この石は、かつて火山が噴火した時に降って来た石ですね」と教えてくれました。

同じものを見ているはずなのに、知識や経験の差によって見えている解像度が違うのだと思わされた経験は、誰しもあると思います。ある人にとっては単なる「青色」が、別の人にとっては「憧れのティファニーブルー」であったりするように、私にとっての「石」は、藤田さんにとって違うものに映っているのでしょう。

石以外にも、山に生える植物や虫、そして細野高原で何百年も続いてきた「山焼き」について、たくさんのことを教えていただきました。

稲取展望テラスから見える景色。夏の時期は、海の青さと緑の濃さのコントラストが美しい

何かを楽しむための知識は、一朝一夕に身につけることはできません。春夏秋冬、雨の日も晴れの日も、伊豆稲取の自然と向き合わなければわからないものがあるはず。だから、何も知らない”素人”がここでの自然を楽しむには、知見のある人からの解説が必要です。

一つひとつを丁寧に教えてくれる藤田さんの語り口は、いわゆる「テンションが高い」カテゴリーには分類されません。しかし、伊豆稲取の自然のすばらしさを知識だけでなく実感を伴って理解していて、それを伝えようとしてくれる静かな熱意を感じられるガイドでした。

思えば、伊豆稲取で出会った人はみな、この「静かな熱意」を持っていたように思います。

品川から熱海まで新幹線に乗り、そこから1時間ほど電車にゆられてたどり着いた伊豆稲取駅で迎えてくれた、一組限定リノベーション宿「湊庵 錆御納戸(そうあん さびおなんど。以下、錆御納戸)」の荒武さんもそうでした。

荒武さんは学生時代、地域おこし協力隊としてこの地を訪れたことをきっかけに、今では伊豆稲取に移住して宿やシェアキッチンなどの事業を手掛けています。今回、私たちサスタビメンバーが宿泊したのも、荒武さんが運営する錆御納戸でした。

荒武さんの車に乗り込み、さっそく伊豆稲取の町を巡ります。あらかじめ宿や町について取材したいとお願いしていましたが、一般の旅行客が宿泊したときも、同じように町案内をしてくれるそう。

「でも、そこは難しいところです。現地でたくさんコミュニケーションをとりたい人もいれば、家族や友人水入らずで楽しみたい人もいるので。この町を楽しんでほしいですが、押しつけたくもありません」

慣れたように伊豆稲取の町で車を走らせる、荒武さんが言いました。

錆御納戸の1階。自然と集まりたくなるだんらんスペース

錆御納戸は「“港町の暮らしを旅する”一組限定リノベーション宿」というコンセプトで、素泊まりを基本とし、近隣の温泉や飲食店を紹介してくれます。旅人が暮らしに溶け込めるよう、長期滞在者に嬉しいコワーキングスペースの運営や、町の重要な産業である漁業を身近に感じられる漁船クルージングの紹介をしています。

荒武さんが「ここに行ってください」と言うことはありませんが、こちらから相談すればまさに求めていることにぴったりの場所や体験を提供してくれる仕組みです。押しつけがましさのない、でもこの町を好きになってほしいという「静かな熱意」を、ここでも感じました。

「未来へつなげる」というサステナビリティ

錆御納戸では宿泊客を自社で囲い込んでいません。町のあらゆるヒト・モノ・コトを紹介し、訪れた人を地域全体で受け入れる、とてもサステナブルな活動をしています。

宿の建物も、同様です。建設されてから半世紀近く経つ錆御納戸は、もともと地元の方が所有する空き家でした。本来は事業用に使えない契約だったこの家を、この地に溶け込んだ結果「荒武さんなら」と許可をもらったそう。

地元の方が暮らす住宅街にひっそりとたたずむ

そしてこの建物を取り壊すのではなく、家の歴史を未来につなげられるよう、リノベーションをして宿につくりかえることにしました。住宅街にひっそりと建つこの建物は、歴史の味わいと現代の清潔感をあわせもつ、とても居心地のいい場所になっています。このままでは取り壊されるかもしれなかった建物を未来につなげるだけでもサステナブルな要素ではありますが、宿の備品も竹パルプを利用したティッシュが備え付けられるなど、細かな点でも気づかいが感じられます。

穏やかな時間が流れる錆御納戸ですが、旅人を迎える宿泊施設が町に溶け込むには、苦労もあります。宿のコンセプトを理解しないまま訪れた客が、深夜まで大騒ぎをして近隣住民の生活を乱してしまうこともあるそうです。

宿の経営を考えれば、利益第一主義で「建物の防音機能を高めて好きなようにできるようにして、どんな客でも構わず集める」という選択肢もあるでしょう。しかし荒武さんは、伊豆稲取で暮らすように時間を過ごしてもらうことを大切にし、一人ひとりに理解を求めるようにしています。手間もかかれば、思いがうまく伝わらずもどかしい思いをすることもきっとあるでしょうが、旅人と向き合うことを諦めていません。

錆御納戸では、伊豆稲取に住んでいた陶芸家の友人による、温かみのあるランプシェードが飾られる

荒武さんには、藤田さんによるジオガイド以外にも、色々なアクティビティを紹介していただきました。その一つが、雛のつるし飾りの制作体験です。日本では三大吊るし飾りとして、山形県酒田市の「傘福」、福岡県柳川市の「さげもん」、そして伊豆稲取の「雛のつるし飾り」が知られています。そのため、町には「稲取文化公園 雛の館」があり、様々な作品が飾られています。

当時、雛人形を飾る文化はすでにありましたが、一部の裕福な家庭でしか扱われない、とても高価なものでした。
そこで雛人形を飾ることのできない一般家庭のお母さんやおばあちゃん、叔母さんから近所の人たちまで、みんなで自分達のお古の着物の端切れなどを持ち寄り、女の子の健康と幸せの意味合いを込めた様々なモチーフの小さな人形を少しずつこしらえて、紐でつないだ独自の和裁細工「雛のつるし飾り」の伝統が始まり、現在まで受け継がれてきております。(引用:「雛のつるし飾り」稲取温泉旅館協同組合

ひな人形を囲むように、大量の雛のつるし飾りが飾られている

江戸時代から伝わる雛のつるし飾りは、時代の移り変わりとともに廃れてしまいそうになったこともありました。しかし、地域の文化として未来につなげるため、「ニコニコ会」が発足。地元でつくるだけでなく、都内の大学でレッスンを開いたり、百貨店で完成品を販売したりと、積極的な活動を行っています。

「みんなで集まって楽しくつくりたいから、ニコニコ会という名前にしたの」

途方もなく不器用な私が日が暮れそうなスピードで雛のつるし飾りをつくるかたわらで、決して急かすことなく寄り添ってくれた、ニコニコ会の斎藤さんが教えてくれました。この日、工房に飾られていたのは「生まれたばかりの荒武さんのお子さんに」と、新しく制作した豪華な雛のつるし飾り。数百年も昔から続く文化が、これからの未来を担う新しい命に彩をそえる、とてもサステナブルな光景でした。

伊豆稲取を訪れる人生と、知らないままおえる人生

日本には、 1,718の市町村があります。よっぽど特殊な生活スタイルでなければ、すべての場所を訪れることはできません。だから私たちは、「どの土地を訪れる人生にするのか」を選ぶ必要があります。とても素敵なところでも、まったく知らないまま人生をおえる土地もたくさんあるでしょう。もしそこを訪れていたら、何かが変わったかもしれないのに。

港町である伊豆稲取は、金目鯛やアジフライがおいしい飲食店が多い

伊豆稲取は、多くの人にとってそういう町かもしれません。とはいえそれは、たとえばインドや東京のように一撃で「人生が180度変わった」というしろものとは異なります。角度でいえば、2~3度変わる程度でしょう。でも、想像してみてください。自分の人生が一直線に伸びているとして、伊豆稲取を訪れたことをきっかけに、その線が2~3度上向いたら。最初の数年は、小さい差でしかありません。でも、5年、10年経つと大きな違いをもたらします。

「自分にとって伊豆稲取がどんな場所か」は、行ってみなければわかりません。行ったところで何も変わらない可能性も、もちろんあります。とはいえこの町は、そんな大層な気合を入れなくても、ふらりと滞在できる気軽さがあります。肩肘はらず、気軽に足を向けた人間も受け入れてくれる優しさとおおらかさがあるのです。

最後に、ジオガイドの藤田さんが山頂で景色を観ながら話していたことを紹介します。

「きれいですよね。ぼくも『なんだかな』と思うことがあったとき、ここに一人で来て景色を観ることがあります」

錆御納戸にはそんな「なんだかな」を抱えた人にぴったりの、「風待ちステイ」という宿泊プランもあります。

レールに沿って生きるのではなく、自分らしく豊かな生活を送り、そして世の中にも役立ちたい、と、紆余曲折しながらもそれぞれ人生の旅を歩んでいます。
見たことのない景色や、自分にとっての宝物を探しに行く冒険のような旅路ですが、時には、少し休んだり、次の道を考え直したい、そんな時もあるでしょう。
この街は、そんな「風待ち」の時間にぴったりの場所です。(引用:湊庵【so-an】「風待ちステイ」

人生の風を待ちたいタイミングで、この町を訪れてみてはいかがでしょうか。

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