【前編】では、マクドナルドというお馴染みのファストフードの歴史を少しだけ振り返り、その理念/考え方の特徴を見てきました。
この【後編】では、「社会のマクドナルド化(Mcdonaldization)」(リッツァ 1999)についてもう少し詳しく掘り下げてみたいと思います。
社会のマクドナルド化
【前編】で紹介したように、カリフォルニア州でマクドナルド兄弟が開始したハンバーガーレストランは、起業家レイ・クロックとのフランチャイズ契約をきっかけに、その後世界へと展開していきました。
そしてマクドナルドの世界的展開は、いわば「マクドナルド的な働き方」「マクドナルド的な考え方」がカリフォルニア州から全米へ、そして世界へと広がっていくプロセスでもあったといっていいかもしれません(ちなみに日本には1971年に第1号店が出店しています)。
マクドナルド的な考え方/働き方とは、ひとことでいえば「合理化」です。それはファストフード・レストランが根底に有する思想です(リッツァ 1999)。その「合理化」を追求しようとする考え方自体が世界へと広がっていく過程をジョージ・リッツァは「マクドナルド化(McDonaldization)」と呼んだのです。
ここでの「合理化」には、つぎの4つの要素が含まれています。
- 効率性
- 計算可能性
- 予測可能性
- 制御
これらについて、ひとつずつ解説していきましょう。
効率性
仕事の効率性を極限まで高めること。ファストフード店では、その理念が徹底して追求されます。そのためには、従業員の業務のプロセスをとことん簡素化し、客に提供するサービスも簡素化する(だけれども客には満足させる)ことが目指されます。
たとえばマクドナルドでは、食べ終わったら客は自分でトレイを決められた場所に戻し、紙類とプラスチックを自ら分別して片づけますよね。「客が自分で片づける」こと、言ってしまえば従業員だけでなく「客にも働かせる」ことは、ファストフード店の大きな特徴です。それは従業員の業務を減らし、客の回転率を高めること(客自身によって!)に結びついています。
計算可能性
計算可能性とは、いわば「数値化」であり、それによる「見える化」です。
たとえば「ビッグマック」「ダブルチーズバーガー」といった商品名称は、その商品の「量」が商品の「質」を説明するような働きをします。
従業員の労働の評価基準も変質します。それは「質」ではなく、「時間」や業務の「数」によって評価されるようになります。その当然の帰結として、「スピード」の価値が上昇します。質にこだわるのではなく、いかに早く/速くサービスを提供し「数」をこなすかという点が重視されることもまた、ファストフード的思考の特徴です。
予測可能性
チェーン/フランチャイズ店は、「どこに行っても同じ味が楽しめる」ところに特徴があります。予測可能性とはそのような意味です。サービスはマニュアル化され、どの店舗でも均一なサービスを客が享受できること。これも合理化の重要な特徴です。
近年のマクドナルドでは、マニュアル化どころか自動化(オートメーション)も進んでいますね。タッチパネルで注文し、レシートをもって待ち、店頭ディスプレイに自分のレシート番号が表示されたら店員から商品を受け取るだけ。従業員と一言も会話せずに済ますこともできそうなほどです。
従業員の側にとっても、業務や客対応はすべてマニュアル化されているので、仕事にあたって迷ったり自身の判断が求められたりするケースが可能な限り縮減されています。ゆえに「楽」だったり、そのぶん仕事の「数」をこなすことに集中したりすることができるといえるでしょう。予測可能性の向上は効率性の向上と深く結びついています。
制御
以上で説明してきたマクドナルド的・ファストフード的な考え方や仕組みは、私たち人間を制御する方向性に働きます。マニュアルによる従業員の行動の制御。注文自動化による客の行動の制御。
「制御」という言葉はふつう、機械やロボットなどに対して用いられる言葉です。人間はおろか、動物に対しても用いられることはほとんどないでしょう。だとすると、私たちを「制御」するよう働くマクドナルド的・ファストフード的な仕組みは、言い換えれば私たち人間を機械のように扱う仕組みだと言えます。
マクドナルド的・ファストフード的な仕組みや思考がめざす、合理化の徹底は、私たちを制御可能で、予測可能で、計算可能な「機械」のような存在へと誘うような仕組みなのかもしれない――ジョージ・リッツアの著作『マクドナルド化する社会』や、それを土台とした社会評論はそのような問題意識を投じてきました。
便利で効率的なことは、悪いこと?
社会がファストフード化していくことや、合理主義の徹底による経済追求で世界が彩られてしまうこと、どこへいってもチェーン店の同じような景色が広がってしまうこと……「社会のマクドナルド化」は多くの場合、否定的/批判的なニュアンスを込めて語られてきました。しかし、「合理化」を目指すこと自体は必ずしも悪い事ではないように思えます。物事を合理的に判断したり、無駄を減らしたりすることの大切さも、私たちは知っているはずです。
ことサステナブルな文脈においては、たとえば交通機関のエネルギーロスを減らすことや、アメニティの提供を減らすといったこともまた広い意味での「合理化」に含まれるものでしょう。それもファストフード的な思考の仲間なのでしょうか?
おそらく「合理化」そのものは、けっして悪者ではなく、むしろサステナブルな社会の実現にあたって有益な考え方のひとつなのだと思われます。上に述べたように、エネルギーの利用を効率化したり余剰を削減したりすることはサステナビリティの向上において必要なことです。
重要なことは、最終的な目的が「サステナビリティの向上」や「サステナブルな社会の実現」に置かれていることなのだと思います。反対に、合理化を徹底させることそれ自体が目的化されてしまったり、それによって経済的利益のみを追求してしまったりすることが問題なのでしょう。「アメニティを宿泊施設から削減し、お客さんに持参してもらうこと」や「ホテルの部屋清掃を断ること」といったサステナブルな旅の「新常識」も、捉え方によっては「サステナブルな旅の方法」ともなれば、反対に「施設ではなく客に働かせる合理化の徹底、あるいはコストカットによる利益生産」にもなってしまいます。
いうまでもなく、経済的利益は事業において必要です。経済性を考えなければ、そもそも事業のサステナビリティが損なわれてしまいますね。したがって経済性とそれ以外のことは二者択一で捉えるべきものではありません。経済性「も」考えながら、何らかの目的(サステナブルな社会の実現等)の達成を目指していくことが理想的なのでしょう。
旅人は「もらいすぎ」「もてなされすぎ」だった?
リッツァの「マクドナルド化」において、たとえば「従業員ではなく客が労働すること」という「効率化」の動きが批判的に捉えられたり、驚きとともに読まれたりした理由は、「従業員=働く存在」「客=サービスを享受する存在」という前提があったからかもしれません。その「従業員/客」はある意味で、当初から特定の上下関係に置かれています。すなわち、従業員がもてなす側であり、客はもてなしを受ける側であるという権力関係です(詳しくは以下の記事をご覧ください!)。
しかし上の記事でも述べたように、こと「サステナブルな旅」においては、ホストもゲストも対等な存在であることが理想であり、彼らは「サステナブルな社会の実現を共に目指すパートナー」にほかならないのです。そう考えたとき、「従業員ではなく客が働く」というマクドナルド化の一要素は、もしかしたらサステナブルな旅における理想的なホスト/ゲスト関係への可能性もまた内包していると捉えなおすことも不可能ではないかもしれません(現状は、経済利益追求が主たる「効率化」の目的になっている)。
考えてみれば、ホスピタリティという言葉がなぜお店や従業員の側にのみ置かれてきたのかという点も不思議です。相手に対して思いやりを持ったり、誠意をもって相手をもてなしたりする「ホスピタリティ」は、基本的には誰もが実践すべきものであるはず。しかし既存の観光の文脈におけるホスピタリティは、お店や従業員、地域住民の側にばかり求められており、旅人は一方的にホスピタリティを享受する立場にあります。この不均衡は、問いなおしの余地があるのではないでしょうか。
地域や施設や店員さんにたいして感謝の意を持って接したり、地域を応援するという気持ちで旅にでたりするといった、「旅人の側のホスピタリティ」もまた求められているのではないでしょうか。
今回の記事では「効率性」、とくに「従業員ではなく客が働く」という「マクドナルド化」の一側面について、複数の捉え方がありうることを考えました。ほかの要素(計算可能性、予測可能性、そして制御)についてはどうでしょうか。「マクドナルド化の展開」として内省的に捉えるべきものもあれば、もしかすると「サステナブルな旅」において示唆のあるものもあるかもしれません。みなさんもぜひ考えてみてください。
参考文献
長谷川公一(2019)「組織とネットワーク」長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志編『社会学 (新版)』有斐閣、pp.104-136.
リッツァ、ジョージ(1999)『マクドナルド化する社会』正岡寛司訳、早稲田大学出版部。
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