観光客は「観る側」ではなくなった?
「光」を「観る」と書いて、観光。
観光の基本的な特徴は、どこかへ行って、何かを「観る」ことにあります。もちろん、何かを「する」(美味しいものを食べる、温泉に入る、お土産を買う、写真を撮る……等々)ことも観光の魅力を作っていて、観光は身体の五感をフル稼働して楽しまれるものですが、そのなかでも視覚、すなわち何かを「観る」ということは重要な位置づけにあり続けてきました。
今回の記事では、そのように「観る側」であった観光客が、今日ではかつてなく「観られる側」となってきていることについて紹介します。
「観る側」であった観光客
観光者とは、何かを「観る者」として考えられてきたといえます。観光地やその地域の人びとに「まなざし」を向け、観て回る。たとえば「観光人類学」や「観光社会学」といった学問分野では、その「まなざし」がもつ権力性が批判的に考えられてきました。
「観光のまなざし」については以下の記事をぜひ。
「観る側」としての先進諸国の人びとと、「観られる側」としてのそれ以外の国・社会の人びと。観光に出かけることができる豊かな人びとと、そうした観光客たちに一方的に観られ、「異国」や「珍奇」といったイメージを抱かれ、「消費」されてしまう人びと。そうしたホストとゲスト間の不均衡なパワーバランスのもとに従来の観光は広がりを見せてきました。
もちろん、「自分たちのことをいかに「観られるか」」について、ホスト社会側は工夫を凝らすこともできます。自分たちのイメージを自分たち自身で作り、観光客に見せ、それを自分たちの文化継承やコミュニティづくりに活用したりするなどして、「一方的に観られる」ことを「観せる(見せる)」へと変容させようとする営みもたくさん存在します。
とはいえ、観光客は「観る側」であり、観光地やホスト地域社会は「観られる側」「観せる(見せる)側」であったことに大きな変わりはありません。
観光客はかつてなく「観られている」
今日、観光をとりまく社会のイメージは必ずしも良いものではありません。観光は外貨獲得や地域の社会・経済的活性化の鍵として考えられているいっぽうで、オーバーツーリズムによって地域や環境に大きな負荷を与えたり、感染症を広げたり、地球規模のエネルギー問題や環境問題を負の方向に加速させてしまったりと、問題の多い営みとしても考えられています。
それに伴い、テレビやメディアでも、「観光地の姿」と同じかそれ以上に「観光客の姿」が映し出されるようになってきています。帰省/ホリデーシーズンに空港や駅で大混雑を引き起こしている人びとの群れ。人でごった返しになっている観光地の姿。片側車線だけ車が敷き詰められている高速道路。観光客の群れは私たちに特定のイメージを放っています。
そして個々の観光客は、なにより、それまで「観られる側」であった観光地や周辺地域住民から「まなざし」を逆に投げかけられるようになっています。2020年以降の新興感染症の流行下では「観光客お断り」の看板や言説が日本各地、あるいは世界各地で観察されました。それ以前でも、オーバーツーリズムなどの問題によって、観光客は地域の側から「問題」として観られたり、地域に対して迷惑な行為をしないかどうか厳しいチェックの目にさらされたりしています。
観光客は選ばれる側に
こう言ってよければ、「お客様は神様だ」と言わんばかりに好き勝手に観光や旅を行うことができるような時代はすでに過ぎ去っていると考えておく必要があるでしょう。観光客は、従来は、行きたいところに行き、したいことをし、観たいものを観る、「選ぶ自由」を持っていたかもしれません。
しかし今では、観光客はむしろ「選ばれる側」です。宿泊施設や観光地の側が、観光客を選ぶ。そうしたことが少しずつ増えてきています。「こうした人に来てほしい」「こういう人には来てほしくない」。観光地や施設の側がそうした意思やコンセプトを表明するようになってきました。
そうした動向は、「消費者教育」の展開など、今日の社会に広く看取される変化だともいえましょう。
観光客としての振る舞いや心構えが求められるように
「客」の立場は今日、ひじょうに「境界的」です。ただし付け加えておけば、それは全く新しいことではありません。
そもそも「ホスピタリティ」という言葉の語源hostisが、「客」だけでなく「異人」や「敵」を迎えるという意味を持っていたように、当初から「客人」「来訪者」そして「観光客」は地域の側から一定の警戒とともに観られていました。また、「まなざし」はつねに相互的なもの(「相互的まなざし(mutual gaze)」)として存在することについて、観光研究でも指摘されてきました(Maoz 2005)。
今日では、より観光客としての望ましい振る舞いや心構えが、地域や社会から要求されるようになってきていると言えます。サスタビでも幾度か紹介させていただいている「ツーリストシップ」(touristship)の考え方はまさにそのようなものですね。観光地に行くことと、友人や知人のご自宅に「お邪魔する」ということの間に本質的な差異などないことが、「ツーリストシップ」やサスタビの紹介する「サスタビ20ヶ条」をはじめ、社会的に認識され始めているのです。
ツーリストシップについては以下の記事をぜひ。
観光客/旅人としての「かっこよさ」
観光客は、「観る側」「選ぶ側」であるのと同じか、もしかするとそれ以上に「観られる側」「選ばれる側」にある。だとすれば、観光客として地域の側に受け入れてもらえるような心構えや振る舞い、「身だしなみ」が求められているということですね。
そして、観光客は観光地や社会からだけではなく、周りの他の観光客からもつねに観られているといえます。観光中、私たちはつねに、「他の観光客は何をしているか」に一定の注意と関心を払っているとは言えないでしょうか。そのことも踏まえると、あまりに身勝手で奔放な振る舞いは恥ずかしくなってきてしまいますね。
今こそ、観光客/旅人としての「かっこよさ」を探究するときかもしれません。そしてその「かっこよさ」は、「サステナブルな旅」と深く結びついています。
参考文献
アーリ・ジョン、ヨーナス・ラースン (2014)『観光のまなざし 増補改訂版』加太宏邦訳、法政大学出版局。
Maoz, D. (2005) The Mutual Gaze, Annals of Tourism Research, 33,(1):221-239.
ひかり
すみません。途中でコメントを送信してしまいました。
光を観ると書いて観光。どこかに行ってその土地の光(魅力的なところ)を観る、ということでしょうか。
いつもと変わらない日常、それが普通ではなく、幸せなことだと気づかされる昨今。あたりまえだと思っていることを今一度深く考えてみたくなりました。
はる さん
素敵なコメントをありがとうございます!